色彩應用論[五]のつゞき 水

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榕村主人
『みづゑ』第二十二
明治40年3月3日

 水は光線と空氣との影響で頗る美觀を呈するもので、その千態万状枚擧に暇ない程である。山中緑樹の中に湛えた水は鏡の如く靜で麗はしいが、限りなき太洋の水は、波濤の膨湃として、見るものをして自ら崇高の感を起さしめるのである。この故に畫家たるものが、筆を投じて自然の秀でたるを感ずるであらうが、須らく勇を鼓し、神來の興を求めて、精心精意を以て自然を研究せねばならぬのである。水の研究を始めるに當ツては、例之ば靜な池とするならば、其最も重要な特性を吟味せねばならぬ。その色は純粹であるか、或は濁ッて居るか。その透明であるか不透明であるか、またその反射する力等をも極めねばならない。
 秩序ある研究を重ねると、水は靜止の場合と流動する場合とで、同じ純粹な水でも、その色に變化のあることが知れるのである。また同じ流るゝ水でも、その透いて見ゆる植物や地の色に因て變化することがある。自然を忠實に模寫するやうにすれば、自ら水そのものの色であるか、また天空或は周圍の物の反射からの色であるかも了解するやうになる。猶水の研究には反射の法則及水の表面に現はれる視線の角度等も研究して置かねばならぬ。また水底にある岩石、砂、水草等の色に依ッて水の色の變はることをも極めねばならない。投影も亦注意する要がある。もし濁水であるならば、唯影が表面に投げるばかりであるが、もし清水であれば影が水底にまで達して、水色と反射の色と混交するものである。色のある水中の物から反射する光線は、水面から反射したものとは甚だ相違のあるもので、表面からのは通例冷色であるが、水中からのは色が豐富で暖い。これは透明色で模することが出來る。
 水の透明なるものは、これを表はすのは容易でない。淺いものは左程困難ではないが、深い水は甚だ難事である。でこれを見せるには、舟または其他の浮いて居るものが必要である。で舟の底の暗い處を見ると、水の深さも推し得らるゝ理である。
 總て物の色は水中にあると變化するものである。また物の影は、その肉眼に映ずる實物とは異るもので、例之ばこゝに樹木があるとすれば、上部の枝の光線のある處は水中の影には見えないのである。水中に映る影の量は、見る人の位置に依て多寡がある。
 漣も面白いもので、物の反射を伸ばすものである。漣には兩面があつて、物の反射を二樣にする。例之ば日沒の際の如き、波の一面即ち日に向ッた方は暖い光線を反射し、他方の波は冷い藍色に反射するが如きである。かゝる反射は最も麗はしい對照で、しかも常に調和の可いものである。
 水を描くには、雲や天空を描く心持でするのである。筆に彩料を充分に含まして、全體に平らかに塗る、正しい物の形の縁は殘して置くのは無論のことであるが、輪廓の和かな不明瞭なものは塗りつぶして仕舞ツて、後に線を以て描くことゝする。
 水の全體の調子は單にローシーナで傳色する。てもし深く緑強ちであるならば、ブラオンマダー、ヴアンダイクブラオンもしくはエローオーカーを用ゐる。この調子を冷くするには、コバルトブリユー、フレンチブリユーもしくはインヂゴーを交じへる。もし水が暗い色か影の所はブラオンピンク、パープルマダーもしくはヴアンダイクブラオンを交へる。海草其他水底の植物は其色で描いて、バーントシーナとインヂゴーもしくはインヂゴーとレーキもしくはセビアで重潤するのである。
 水の活動の樣を寫すのは、殊に初學者には至難の業である。でこれを好くするには、活動の形、色等を至細に觀察して記憶する力を養ふにある。で半ばは記憶に依て描かねばならない。例之ば波濤の岩石に碎くる樣を描くとすれば、先づ鉛筆で手早く地平線、岩の形、波の盛り上ツて岩に碎ける樣を輪廊を取ッて其上をインヂゴーとインヂアンレツドかブラオンマダーとの中和色を達筆に塗る、併し手前の方へはローシーナの少量を交へて塗る。此際最高い光部は殘して置くのである。次にはフレンチブリユーとクリムゾンレーキとを塗る、遠方の水には少量のローシーナを加へ、手近になるに從てローシーナとインヂゴーと少量のマダーとを用ひる。これを塗る時には波の光部は殘して置く。こゝで更に最暗い部分を描くのである。波の巻いた下部はインヂゴーとローシーナもしくはインヂゴーとヴァンダイクブラオンとで描く。こゝで注意すべきことは岩石は宛として固く見ゆるやう描くことである。泡沫や水玉は畫面に水を點じて布か揉皮で押取る。猶飛離れて居る水玉は洋刀の先で掻くか、ホワイトを點ずるのである。ホワイトを用ふるには最光部に限ることにして、小波や波は線で描くことを記憶して居らぬはならぬ。餘りホワイトを使ひ過ぎると水が不透明となる憂があるからである。
 海の畫等には舶船を點綴すると非常に興味を添えるものであるから、海の色等との調和を研究して置くべきである。
 水の細分したるもの即ち霧、細雨等は景色を糢糊とせしむるもので、大雨となつては、全く景色が見えぬやうになる。しかしそれ等を巧に配すれば、書が或は壮嚴となり或は優麗となつて、甚だ變化に富んで居るものであるから研究の價値がある。
 瀧は前項波濤の岩石に碎くる樣と異同一であるから、こゝには略することゝする。(水の部完)

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