ぬきがき
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水聲無思
『みづゑ』第二十二
明治40年3月3日
▼古い明治美術會の報告に、故林忠正氏の演説がある。その中の數節を御披露しやう。何れも今の畫を學ぶものが傾聽してよい事許りである。曰く
△繪畫の實體を描くこと能はざれば精神を描くこと能はざるものなり。
△繪畫の活物たる猶ほ人の如し、畫の實體は猶人の身體の如きなり、畫の精神は猶ほ人の精神の如きなり、苟も神體共に備はらざれば安全なる活畫といふべからず。
△夫れ人の畫を感ずるや、眼先づ之か視て而して心之を觀るものなり、畫の實體先づ我眼に感觸して、而して畫の精神我心を感動するものなり。
△故に畫人は實體を描くを措いて別に精神を畫くこと能はざるものなり。不備の實體に依て十分の志想を表出せんとするは、猶ほ文字に富まずして詩を作るが如きなり、其思想や嘉みすべし、其詩や吟ずべからず。斯の如きものは技術と稱すべからざるなり。
△余は今の畫人を以て、已に畫の實體を能くするもの、又繪畫揮描の技に鍛錬せるものと認むる能はざるなり、故に余は今の畫人に向て、實地揮描の技を十分錬磨あらんことを希ふ者なり、物の實體を描く事を勸むるものなり、物の形を寫して眞物の形を見るが如く、物の色を寫して眞物の色を見るが如く、物の光彩を寫して眞物の光彩を見るが如きの感じを起さしむるの巧技となられんことを希ふ者なり、物の骨格、皮相、大小、長短、輕重、剛柔、冷温、乾潤、位置、遠近等を寫して、眞物に接するが如きの感じを起さしむるの妙手となられんことを希ふものなり、余の之を希ふは余一個の私にあらるざなり、實に美術その者の之を欲すればなり。
△以上は近世の大家たる佛蘭西の畫家ドラクロア氏が希望せし描畫の約束中『繪畫の實體』に係る箇條の一斑なり、ドラクロア氏獨り之を希ひしにあらず、古來の大家は皆之を希ヘり、ドラクロア獨り自ら之を勉めしにあらずして、親しく朋友に説き門人に教へし所なり。
△而して古今幾千万の畫家中、ドラクロアをして滿足せしむるもの幾人かある、繪畫實體的技術の困難なること實に斯の如し、其精神を寫し思想を表出するの術に至ては、困難更に言ふべからざるものあるなり。
△然れ共、余は畫家に向つて、實體を描くの能事了つて始めて思想を畫くべしと言ふにはあらず、思想の表出を勉めることも今より勉強すべし、唯畫家が、思想の描出に熱心の餘り實體を蔑視するの流弊を憂ふるものなり、畫家が實體を寫すの困難に向つて、戰ふの力盡きて、實體は寫して眞に迫る能はざるものなりと放棄するの流弊を責むるものなり、實體は取るに足らず精神を通ずるは畫の目的なりと唱し、實體と精神との關係如何を究めず、壯嚴術を忘れ、美學と哲學とを混じ、畫を其形の理論と取違へるの流弊を責むるものなり。
△余は一日も早く畫家に向つて、實體を差置き思想を描くべしといふの秋に至らんことを切望するものなれど、今日に於ては、專ら實體の描寫を以て畫家の最も重んずべきものと信ずるなり。
▼石一つ木の葉一枚滿足に描くこと能はずして、感じの精神のと生意氣の事をいふ先生達には實に項門の一針といふべし次に美術の定義を論じて曰く
△近世の美論家が專ら唱ふる庭の美術の定義は左の如し、
美術は物に感じて心に生ずるものなり美術は感情の内に溢れて外に發するものなり。
美術は我が感情を動かしたるものゝ形跡を止むるものなり。
美術は無形の思想を有形に轉稱するの術なり。
美術は才能の産子あり。
美術は性理學的のものなり、心理學的に反對するものなり。
△佛人は性理的に基き美術を大分して眼界美術耳界美術の二とせり、一は光線を借りて目より入り仝體一塊となりて卒然一度に眼に投じ、以て人を感動せしむるもなり。一は聲音を借りて耳に入り、續々鼓動して次第に耳を襲ひ、以て人を感動せしむるものなり。佛國に於て通常單に美術と稱するものは眼界美術を指すなり。
△眼界美術を別つて二種とす、一は傳神術、一は壯嚴術なり。傳神術は感情の發露なり、思想の表出なり、壯嚴術は觀美の調理なり、壯麗の配合なり、即ち繪畫の設色濃淡彫刻の容貌骨格建築の長短曲直等の類なり、夫の宮殿樓閣の宏壯偉麗、觀るものをして悚然感動を起こさしむるものは即ち建築の壯嚴術なり
△應用美術の工藝に益あるは、主として壯嚴術の澤に溶するが爲めなり。壯嚴術の工藝に於けるは、猶ほ理化學の實業に於けるが如く、壯嚴術を捨てゝ理論に奔りたる美學は、恰も肉體を捨てゝ人間を存せんと欲するが如きなり。
△壯嚴術は美術の實體なり、傳神術は美術の精神なり、二つのもの一を缺て完全なる活美術たること能はざるなり、故に眞寫に自在に壯嚴術に長じたる上にあらざれば、傳神術を究めんと欲すと雖も得て能くすべからず。
▼以上はその大要なり、猶林氏の説には他に有益なるものあれば他日諸君に御紹介申上べし。