寄書 長野市に於ける洋畫講習會略記

福山天陰
『みづゑ』第二十二
明治40年3月3日

 世の人々は、天下太平の屠蘇に微醉機嫌の松の内と云ふ、本年一月の二日から同十日迄九日間の日子を、我々同志四十名は、雪深き信州長野市男子師範學校内に開催した洋畫講習會場で、ミユーズの神の寵兒となって、丸山晩霞、大下藤次郎兩畫伯指導の下に、愉快に且つ有益に暮す事が出來た。で、嗜好を同じうする人々の參考にもならふとも思ふから、會の成立した動機並に其の略况を、本紙の餘白を借りて、極めて簡單に述べようと思ふのである。
 成立した動機などゝ云ふと、如何にも鹿瓜らしく聞えるが、其實此會は僕と師範學校教諭齋藤金造氏とが、茶飲み話しに持上つたのが始めで、其れから同校の芳川教諭、長野高等女學校の赤沼金井二教諭、長野中學校の町田教諭、長野地方裁判所の判事小田幹治郎氏等が、發企人となる事を承諾せられて、愈々新聞に發表する段とはなつたのである、目的は勿論趣味の普及と云ふ事にあつたので、我々發企人の考では、素人だらうが黑人だららふが、其樣な差別は毫もつけず、縱令、臍の緒切つて以來畫筆と云ふものを手にした事が少しも無いものでも、熱心に入會を勸誘したので、會員の技倆の程度などゝ云ふものは、區々紛々、殆どクラスの作り樣に困却した位であつた。會員の中には、實業家もあれば新聞記者もあり、役人もあり、教員もあり、學生もあり、娘さんもあれば奥樣もあつた。中學校女學佼の先生達が、毎日教えて居る學生と机を並べて、熱心に眞面目に稽古をして居る有樣は、丸山畫伯の講義にもあつた畫三味に入つてると外思はれないのであつた。夫よりもまだ烈しく僕等の頭を刺激したのは、講師兩畫伯の熱心であつた。實の處を云へば、正月の事ではあり、山濃い田舍ではあり、氣候は寒し、會員は少し、其上報酬は殆ど無いも同樣と來て居るから、迚も兩畫伯の承諾は覺束ないと思て居た豫想に反し、丸山氏先づ快諾を與へられ、大下氏續いて其の忙中の數日を割く事を諾せられた開會の最初に小田氏が發企人一同を代表して、東洋第一流の畫伯を聘し斯の如き有益なる會を開き得た事に就いては、我々發企人一同は、會員諸君の感謝を要求し得る徳義上の資格を有する事を自信するのである』と云はれた如く斯會が、實に、田舍に於ては得易からざる價値ある會であつた事を公言し得ると同時に、兩畫拍に對して充分に感謝の意を捧げればならぬ事と考へるのである。
 教授及學習の時間は、晝間五時間、夜間約三時間で、短時日の割合には可なりの成功を見たので、最後に講師の諸畫伯及び講習生の作品展覽會を、市下城山舘で開催したが、講習生の中には隨分上手な出來もあつた樣に見受けた。
 夫れから、講習生の大部分は學校の教員諸氏であつたので、僕は、斯會の効果が、會員一身の上のみに止まらず、會員外の後進子弟の上にも普く波及するであらう事を堅く信ずるのである。猶この次にも、信州の何處かで第二期の洋畫講習會を開催したいと云ふ希望は充分あるが、計畫はまだ熟して居らぬので發表する譯にはならぬが、我々は斯の如く有益な會が益々發達して、同好の人々が一人も多く殖へる事を切に祈つて居る。

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