寄書 我が水彩畫の歴史

晩秀生
『みづゑ』第二十二
明治40年3月3日

 余が始めて繪筆を動かしたるは三十五年の初め頃なりき、當時我友人にて丹靑に巧なるものあり其人余に語つて曰く、色料を以て寫生するは寫眞と異りて、天然色を以て天然物を畫き得べく、且精神の觀察力を増さしむ故に、共に研究しては如何と、是余をして水彩畫を習はしむる動機なりき、此所に於てか余は直ちに十二色入繪具籍を求め、先の友人を師とも思ひて水彩畫を習び始めたり。然れども夫より約一年間は水彩畫に就て何の知る處もあらざりき。其當時描きし畫の陰影には何色にも必ず「セピア」を用びたるなり、是は余が曾て動物學の講義中に「烏賊の有する黑汗よりは「セピア」なる色料を得べく、該色は稍褐色を有する黑色にして、陰影用として使用せらる」とありけるを早呑込をして斯くはせるなりき。三十六年の春よりは我學校にも洋畫科の設けあり、鉛筆畫水彩畫若くは鉛筆畫に淡彩を施せるを學び、其後水彩畫「スケツチ」を臨本として眞の水彩と云ふ可きを習ひぬ、此時はじめて陰影は必ずしも「セピア」のみにあらざることを知ると同時に、曩の觀察の不充分なりしを恥ぢぬ。其年の暑中休暇は種々なる水彩畫臨畫帖並びに書類を求めて水彩畫三昧に日を送りたり。又其年秋よりは色鉛筆畫法を修めぬ、翌卅七年の春よりは水彩戸外寫生を爲さんとの心頻に起り、日曜日を待遠しく思はれぬ。此夏水彩畫階梯を購ひ消夏の友とせり。其暑中休暇には越後長岡市の知人の許に遊びて、水彩繪具を持ら其近傍の寫生を試みぬ、其時の作は以前のものよりは稍進歩せしと自ら思へり、こは决して自畫自讃にあらず。暑中休暇終ると共に余は東京に歸れり、而して休日には多く戸外の寫生に出掛けぬ。翌年四月余は或醫學校に入る事となり、隨て多忙の身となり繪に遊ぶの時間は非常に少なくなれり。其夏靑梅地方に寫生旅行を爲し、山水自然の姿に接して多少得る所ありき。次で同志の親友と團結して共に繪畫を研究し、時を期して製作品を集め綴りて他日の參考となし、或は自筆繪端書の交換をなして互に樂しみつゝあり。而して余は其の修めつゝある學問のうちに顯微鏡の實見ある毎に、繪畫を學びしために鏡面に現るはゝ徴細なる虫迄も模寫することを得るなり。こは繪畫のために觀察力を増せし結果なるべし。余の水彩畫歴史は以上の如し。

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