主觀と客觀

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

大下藤次郎
『みづゑ』第二十三 P.5
明治40年4月3日

 繪を學ぶ順序として、初めには自然に對し極めて忠實に寫生し、充分研究したる後は、其修養の力を利用して、自己の思想によつて、敢て自然なるものに束縛せらるゝ事なく自由に手腕を揮ふべきものであるとは、一般に認められてゐる説である。
 さて其忠實なる寫生といふ事についても、主觀と客觀の別があつて、其論旨は一見矛盾してゐる樣に見える。
 曰く自然を眼に見ゆる通りに有の儘を描け。自然を一の臨本と思へ。高低深淺等の考を去れ。各種の色の點綴せられしものと思へ。菜の花をば單に黄なる色ありと思へ。其菜たり大根たり、花たり葉たるを問ふの要なし、即ち物を見ずして色を見よ。一朶の雲、それは層雲たると巻雲たるとは知るの要なし、否雲なりと知るにも及ばず、只其形と色を見れば可なり。一叢の森林、そは柏なるか杉なるかと究むるのは愚なり、只々其觀察力を密にして、其形體を誠實に描寫せば足れり。科學の知識の如きは、却て心に疑を生じて、往々自然の眞相を見る眼を掩ひ害をなすこと少なからず。
 主觀を去れ。主觀の爲め欺かれて、其時實際白からぬ雪をも白く畫き、黄なるべき火を赤く書く、甚しきは草は緑なりとの観念の爲めに、草といへば何でもグリーンを抹し、紅葉といへば無闇にレツドを塗る、これ皆習慣的に自己の想像を重んずるが爲めなりと。
 他は曰く、物を寫す時は、自己先づ其物の心持になれ。岩は硬し、雲は柔かなり、松は松、竹は竹、各其物の特性あり。春は春といふ觀念を忘れずに筆をとれば、其畫には自然に春らしき趣を得べし、秋は秋なりとの心持にて寫せば、何となく淋しく冷やかなる感は畫面に現はるべし、單に見た通りを寫すは易々たる事にて、そは寫眞なり死畫なり、寫すべきものゝ精神を描き現はす事を得ざれば、眞の寫生といふべからず。眼に見えたる以上を寫せ、極めて木完全なる眠にのみ訴へて、其物の感情を表出する事を勉めざれば、物の眞相を寫し得べからず。
 人體を描くに、たゞ見たる丈けの描寫をなすにも、解剖學の知識を備へざるべからず。風景を寫すにも猶透視畫法を知らざるべからず、是等の學問は客觀によつて生ずる誤を正す上に必要なるものである。
 俳優は只その脚本の人物に粉したるのみにては、觀者の心を動かす事能はず、自己先づ其人物の性情を知悉し、心から其人物となりて技を演じてこそ、始めて其眞を寫し得たりといふべし云々。
 一は眼に訴へよといひ、他は心の命に從へよといふ。一は見た通り有の儘を寫して、少しも自己の意志を加ふるなといひ、他は眼は誤多く、且其精神を現はす爲め、寫すべきものゝ、心持になつて描けといふ。何れに從ふべきか、初學の士の大に迷ふ處であらう。
 されど此論は決して矛盾して居らぬ、双方皆道理ある説で、その何れに從ふべきかは筆を執る人の伎倆の程度で定まるのである。
 繪畫を學ぶに客觀的の寫生は尤も必要である。併しこの純客觀、即ち自己を全然没して物の眞相を見るといふことは、初學の人達には到底企て及ばぬ事である、比較的見易い形の上に於ても、觀念の爲めに比例を誤るのは百人が百人迄同じで、初めての寫生に、假に箱を寫生させると、其箱の上部の面は、畫者の位置からは僅に細く一線をなして見ゆるに掲はらず、幅の廣きものであるといふ觀念の爲めに、必ず實際見ゆるよりも廣く畫くのである、されば初學のうちは、眞の客觀は出來ぬもので、習慣上より來る觀念はついて廻るのであるが、是は是非取去るやうにせねばならぬ。
 技術上の新しい發見は客觀的の寫生によつて得らるゝ、常には有り得べからざる現象を、時には視る事がある。白き壁が赤に見えたり、緑に見えたりする。其時は其見えた通りに寫すべきではあるが、併し何故に常と異なる現象が見えたかと、其原因を究め知ることは最も大切であらうと思ふ。
 疑は進歩の階梯である。白壁の赤く見ゆるは、光線の爲めか反射の爲めか、緑に見ゆるは補色の爲めか對照のためか、何等かの原因は必ずある。それを究めてこそ經驗にもなり進歩もあるのである。
 寫生してこれ等の疑の起らぬものは、たとへ何百枚描いても決して發明も進歩もあつたものではない。
 寫生は眼に視たる瞬時の現象を模するもので、寫眞で寫すのと同樣である、併し寫眞のやうに一時に寫し取る譯にはゆかぬ、一瞬の現象を畫くに數時間はかゝる、この數時間筆を執つてゐる間は、最初に感じた一瞬間の現象を忘れぬやうにせねばならぬ、恁ふなると純客觀では出來なくなる。
 疑を正すは科學的知識に訴へねばならぬ、畫家に科學的知識は決して不必要ではない、たゞこれに拘泥しては困るのである。濫りに主觀に流るゝ弊は、客觀に傾くよりは害が多いのである。
 物の感じを現はすには誇大といふことが必要である、物の角度を強くするとか、線を太くするとか、色彩を強烈にする等の手段を用ひねば、其物を現はす事が出來ぬ場合が往々ある。スタデーするには客觀的にゆきたいが、スケツチには主觀的で其感じをとるので、平素スタデーを怠つてゐては、よいスケッチは出來ぬ』要するに、初學の寫生は、客観的に充分忠實にスタデーして、追々スケッチ的感情を寫す方に筆を進めてゆくべきで、スタデーは生涯怠つてはならぬ大切なものではあるが、これ許りではいつ迄たつても眞の繪が出來ず、幼稚な活氣のない、即ち小刀細工的、所謂素人離れのしないといはるゝものになる、併し初めから主觀的にやつてゐては、單調な不自然な、いつでも同じ樣な色や形で、即ち型に入つたといふ畫が出來て、何時迄も進歩もなく、只々熟練で見られるといふ許りの詰らぬものより出來ぬであらう。
 序に注意して置たいのは、一枚の繪にしやうと思ふ寫生をする時は、先づ其場處が極まつたら、最初によく寫すべき自然の有樣を熟視し、出來る丈け觀察して、先づ心の中に其繪を作り、而して後に筆を執るといふ事にしたい、漫然着手して、一筆毎に迷つたり疑つたりしてゐては、到底滿足な結果は得られぬものである』恁んな話がある、ある同級の畫學生が二人、隅田川に寫生に往つた、一人は早くも好位置を見出して、早速寫生に取掛り、ズンズン塗つてゆくのに、他の一人は三脚に腰を下して、只ジツト景色を見てゐる許りである、そして翌日も、同樣で、漸く第三日目から初めて筆を執つて、其日のうちに仕上げて仕舞つた、さて其成績は如何にといふに、三日前から初めた人の繪よりも、一日丈け筆を持つた人の繪の方が遙かに結果がよく、其景色の感じが充分現はれてゐたとの事である、これは事實談であるが、寫生家にとりては有益な物語ではないか。

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