「アルフレッド、イースト」氏の寫生談(承前)

石川欽一郎イシカワキンイチロウ(1871-1945) 作者一覧へ

石川欽一郎
『みづゑ』第二十三
明治40年4月3日

 それから又寫生をすれば自然に對する知覺力が段々進歩すると云ふ得が有ります、故に寫生中に起る瞬間の感じも、直ちに之れを捕へると云ふ用意が幹要です、雲が來て影が地上に落つると云ふような場合、一寸した事で有つてもそれを寫さぬといかぬ、それで一の色と他の色との關係が、實際と違はぬようにいつて居れば、茲に品位と云ふものが生ずる、つまり寫生なるものは畫家に取つては、自己の畫に封する終局の目的に向ふの手段に外ならぬのであります、スケツチは單に未成の畫ではいけない、須らく我が觀察の確信と活動と敏速とを現はすべきである、丁度人間と云ふ機械で取つた早取寫眞のようなもの、寫生と寫眞と違う處は、寫眞は死んだもので有るが、寫生は活きたもので、君が親しく目撃して得たる感想の活現したもので有る、畫學生が自然に對し適當なる觀察を下すようになり、稍や困難なる題目を捕へんとするの勇氣も生じて、又た之に成功するようになれば、更らに他の方面へ考へを及ぼすようになる、即ち畫材の撰澤と云ふことで、之が極めて大切なる事であります、寫生畫即ちスケッチと、習作畫即ちスタデーとの異なる處は、寫生畫の方は瞬間の感じを直覺、迅速に現はしたもので、習作畫の方は畫材を一々丁寧に畫ひたものである、それで出來上つた畫と云ふものは、此兩方を併せて居らなければならぬ、即ち丁寧な習作へ以て行て、活動直覧の寫生と云ふものが加はつて出來る、之は能く心に留むべき事であります、即ち寫生では、時々刻々に變りゆく瞬時の感想を現はすので有つて、君に充分の記憶力があれば、此場合に於て其感じを啓發することが出來るが、記憶力が乏しければ、其寫生は價値のないものとなる、それは色と色との關係が不正確になるからで有ります、寫生するに當り、君の着想に主と從とあるのです、主と云ふのは即ち品位と云つて、色と色との絶對的關係の眞理であります、早い談が、物の形ちは變らぬことを常に覺へて居て、其感じが時々刻々に遷り行くに注意してみたまへ、機敏に觀察すれば、今まで君が氣付かなかつた數多の美が見へてくる、往來を歩るきながら、夕日の空の金色が雨上りの道へ映ずる樣や、人や馬が蹈付け行く泥濘へ、緑青色の空が寫つた處を見ては、實に金錢には代へがたい面白さで、他の人の之れを窺知ることが出來ない、僕は嘗て汽車で旅行をした途中、美しい夕暮の景色を見たのを今に忘れませんが、實に盛んな着色で、何とも云へない立派な景色で有つたが、同車の誰一人として之れを振向く者も無い、そこで僕は傍の人に向つて、之れが若し水昌宮の御所で、こんな美しい景色をこしらへ、錢を取つて見せることゝしたならば皆見に行くだろうが、神が只で作つたもんだから、誰も見ようとはしないと云つたことです、
 一つ君に覺へて居てもらひたい事が有ります、尤とも強ひてと云ふ譯には行きますまいが、朝でも晝ても晩でも始終寫生することです、僕は數ケ月の間毎朝空を寫生しましたが、少し空と云ふものが分つて來たようです、又た數年間樹木を寫生し、それが爲め樹木に付て稍得る處がありました、こうやつて居ると、樹木が如何にして生育するか、如何に地面から生へるか、如何に水分が幹より葉へ傳はるかと云ふことが分つて來ます、樹木は、丁度花の庭園に於けるが如く、地面を飾るのであります、景色畫家は自然を訪ねて、我が爲めに捧げられた畫材を撰擇するのですが、其畫家にターナーのような充分なる熱誠と云ふものが有れば、山をも捕へて來ることが出來るが、この熱誠の無い畫家ならば、いつそ止めて石でも割つて居たほうが宜い、何んでも、熱誠、確信、勇氣、此三つで、他は皆な求めずして到るのです、右の三つのものがあれば、先づ寫生家として半ば成功したものでせう、ターナー、コロー、クロード其他の大家は、自然に於ける心髓とも云ふべき大事なことを教へてくれた、何んであるかと云へば即ち、活動、物と物との正確なる關係、全體の統一、これです、此三大要素は、コローに於ても、亦た他の畫家に於ても、皆凡て總合的に現はれて居るのです、寫生するに當ては、細かい部分に釣込まれてはいけない、之れは徃々不用意から陷ることで、何んでも畫の一番大事のことは幅である、眼を能く開けて自然に對すれば大なる事實を見るでせう、千の小さい誤は、いくら丁寧に畫けて居ても、一つの大なる眞實とはなりません、美術は實際上期する處の目的は只一つです、即ち示すと云ふことです、若し君が言葉で示す事の出來ないものを示すことができ、併かも自然の美趣、光彩までも、共に持ってくることができたならば、慥かに君は周圍の人に善事を爲したのみならず、自分にも非常な愉快を與へたと云ふものです、

長野講習會成績(一)

 人は僕に畫家になつて仕合せだと云ふ、之れには僕も同意するが、併し未だ嘗て畫は樂なものだと云ふ畫家は一人も無からう、寫生家は失敗の苦を忍ばなければいかぬ、之れが大切なことで、終には腕が不知不識思のまゝに動くようになると、こゝに初めて寫生の妙味が分かる、畫家は須らく上手な寫生家で、其指の先きには自然の萬象を有すと云ふ樣になりたい、寫生の畫家に記憶力を増進せしめ、又た物の性格と云ふものを教へるのである、同じ樹を五十遍も寫生して漸く其樹の性格が分るでせう、どう云ふ風に生へて居るとか、どんなに曲りくねつて居るとか、風當の爲にどうなつたとか、之れらは寫生してゐる問に樹が君に言葉を交はし、其來歴を談すのです、併し通行人は知らずに通って、つまらぬ樹だと云ふ、成程材木にしたらば五圓か十圓のものだらう、併し君に取つては猶遙かに價値がある、否實に錢では買へないのです、隨分世の中には、金さへあれば何んでも買へないものは無いと思つて居る人も多い、併しそう云ふ人は、最上等の品物は君が取ることさへ出來れば、皆君のものであると云ふことを知らない、併し若し君が之を取ることが出來ないようならば、決して寫生家なぞにならうとは思ひたまうな、
 アルフレツド、イースト、
○意味の分りにくい處あらば遠慮なく聞いて下さい、委しく説明致します、欽
 

長野講習會成績(二)

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