トーマス、ギルチン[上]
青人
『みづゑ』第二十三 P.13
明治40年4月3日
トーマス、ギルチンは一七七五年二月に生れた。普通ターナーの生年月としてある月より二ヶ月程以前であつた。天才畫家二人の生年月が仝期であツたと共に英國水彩畫諸派の開租として美術史上の關係に於ても離るべからざるものであツた。
ギルチンとターナーとが青春時代に共に技を競ふて研讃せる頃、主導者はターナーではなくて、常に固くギルチンの手にあッた。實にギルチンは二十七年の短生涯に於て大膽に自重ある熱心な勉強家であツた。若し夫れターナーが一八〇二年十一月にギルチンと共に早世したならば、ギルチンの名はターナーの上に出てゝ高かッたに相違ない。ターナーは猶餘命を保ツて、ギルチンの逝いた後殆ど半世紀を創作に勉めたので、其名聲を保ッて居る。しかしこれはギルチンが新畫風開拓者としての貴重なる指導のお蔭を蒙ッて居ることはいふまでもない事である。試にバーリングトン・ハウスに於けるヂブルマ・ギヤラリーにあるターナーの有名な畫のドールバデルンDolbadern)を見給へ。一見してギルチンらしい處が見える。圖抦の華美なる處筆致の温健なる處皆ギルチン風である。ラスキンもターナーが青春時代に於ては己が天才よりはギルチンの指導に負ふ處の多かッたことは疑を容れない。猶其他の美術批評家も仝じ事を認めて居る。
ターナーの病は部分的のエフェクトに餘り巧妙に過ぎて、圖柄が混雑する傾きがある。この爲にターナーの畫の偉大なるを疑ふものはないが、餘りに混雜して散漫である爲めに眼が迷ふ程である。想像的の組立に於ては驚くべき豊富さが諸處に歴然として見えるが、屡々こが統一を缺れいて居る。ターナーが自身に言ふた否、言ふたと傳へられ居る言に、わが繪はギルチンに及ばざること遠しとある。この言がターナー自身の言であるかないかは措いて、ターナーの水彩畫に對しては蓋し適評であるのである。