菱花灣日記[三]

■鶯
『みづゑ』第二十三 P.14-16
明治40年4月3日

 二月一日晴、港へ出で見るに出船入船いと繁く、狭き濱邊は人あまた集ひ居て三脚据ゆべき場處もなし。去つて町を東に山路に入る、磴道幾百級、みな岩を刻みしものにて道は急なり、山を越ゆれば村あり、岩井袋といふ。三方絶壁に、只西の方僅かに海に接せり、水靜かなる小灣を圍める漁村幾十棟詫しげに建てり。更に一の峠を越ゆれば高崎といふ町に出づ、この地鹽水汲むべき井戸ありて夏は温浴の設けあリ、旅宿も稍や見るべきものありといふ。
 

大橋正堯筆

 道ありとも思へぬ浪打際を小浦の方へとゆくに、大なる巖を前景として寫さまほしき景色あり、風寒けれど繪具箱出して一枚を得つ。近くに海苔掻き居りし子供等の、いつか吾が背後に來りて、水の色岩の形に頻りに感嘆の聲を放ち居たりしが、其内の一人『この繪は一錢位すべい』といふに、他の一人は『馬鹿曰ふな百圓グレーするだア』と、この小さき鑑定家は、忽ち評價に非常なる懸隔を來して互に相爭ひぬ。
 三度山に入りて到る處梅花の美しきを賞でつゝ、山人に那古への道を問へば、これより後へ半町程左への道あり、今方荷を積みし牛のゆきし故、それと共にゆかば自から里に出づべし、急ぎ給へといはるゝまゝ、戻りて見れば又も上りの山道なり、牛の瓜跡も僅かに見ゆ。
 道の漸く下りに向ひし頃遙かに牛の影見ゆ、急ぎその跡を追ふに、この牛四五束の薪を負ひ、後ろよりゆく農夫に竹の鞭もて尻を叩かれ、牛の歩みのそれならで馬よりも早く、つゞら折なる山路に屡々其姿を見失はんとしたり。
 さはれ鶏口となるも牛後となる勿れといふ諺あり、いつまでか恁る醜き小牛の跡に立たんやと、大勇氣を奮ひ起して危ふき坂路を馳せ下るに、道は漸く一人を行く程の狹さなれば、褶抜て先ずる事かたく、終に南無谷の村迄蹄の塵を浴びぬ。
 漁村を過ぎてまたも山を越せば豊島なり、富士も見るべく、海には島もありて風光佳なり。これよりは平地を、多田良、船方、那古、湊、八幡と、順路を五時過る頃戸松の家に歸りぬ。
 二日少しく雪ふる、加知山へゆきし折、家の屋根に藁にて造りし輪の置けるを見たり、故ある事もやと主翁に問へば、このほとりにては、新婚の折ホカイとよべる桶に餅を入れて祝ふが例にて、其ホカイの緑にかの藁の輪か乗せ、餅を高く盛上るなりとか、家根の上にこのものあるは新婚ありし印なりといふ。三日晴、節分なり。豆まきは正午過る頃より始まり、かなた此方に福は内の聲にぎはし。
 四日曇、海を寫す。
 五日曇、北上臺の社殿を寫す。
 六日晴、船を寫す。
 七日雪あり、羽鳥氏と共に東海岸にゆく約あり、毎日待てども來らず。
 八日晴、久しく厄介になりし戸松の家を辭して、羽鳥氏と共に根本さしてゆく、館山より三里の道なり。羽鳥氏の知人ある海潮寺に宿かる、寺には年若き住職と、七十餘りの起居不自由なる老訥一人あり、拭き掃除より勝手元迄、住職一人の業にて、夜に入りては村の子達に四書の講義もなすとか、中々に忙しげなり。
 長き廊下を傅ひて、奥まりたる處に吾が臥床は設けられぬ、後ろは本堂なるらし、夜半の風荒れて破戸自ら聲をなすに、淋しさ怖ろしさ云はん方なし。
 九日雨、雷鳴あり。食事のおり膳の隅に白布の濕れたれる置けり、口拭ふためにもやと思ひしが、こは食器をこれにて拭ひ、その儘洗はぬ輕便法なりし。
 

長野講習會成績(三)

 午後より大雨となり雷鳴烈し、さきつ年此村の子守達、雨を避けて鎭守の神樂堂に集まりて遊び居りしに、俄に雷落ちて、三人迄も非業の最期を遂げたりといふ。さて今日の雨も容易に歇まぬに、僧は小降になりてから米磨からんとて、終に夜に入りぬ。夕の食事の膳に就きしは夜半に近き頃なりし、吾は徒らに勝手元を眺めて、仙代萩飯焚の場を想へり。
 十日晴、西風つよし、海岸にゆき見るに、怒濤狂瀾館山灣の比にあらず、この風一日にして歇むべきにあられば、午後より出發に決す。食事の度毎に強らるゝ大根汁にも最早飽きたれば。
 風に追はれて半は走りつ、自濱もいつか過ぎて、千倉の旅舎渡邊に着きしは四時を過ぎたり。今日は濱方休みにて、時經たば混み合ふべきに、早く風呂に入り給へといはるゝまゝ、急ぎ浴場さしてゆき見れば、セピアにて塗りしかと思はるゝばかりの黒き人々、狭き浴室に滿ち滿ちて、湯槽には脚を入るべき透間さへなし、そが中には年若き婦人さへ混り居るに、益々呆れて脆くも退却しぬ。
 十一日晴、左に小山を、右に海を眺めつゝゆく二里、丸山川とよべるあり。九日の雨に水嵩増して、橋は流れ、濁流岸を洗へり。籠負ひし女子共の笑ひ興じつゝ川を渉りゆくに、他に道なければ我も足袋脚袢を解きて流れを亂しぬ、川幅二十問に餘り、寒洌たとへ難し。
 波太島のほとり、思ひし程景色よからず、スケッチ一二を試み、それより道を急ぎて、鴨川、濱荻も空に過ぎ、天津の井筒屋といへるに宿る。この家取扱極めて鄭重に、枕元には水瓶にコツプ、蝋燭マッチの類を置けり。
 十二日曇、小湊誕生寺を見る。鯛の浦は彼處ぞと里人に教へられしが、岸よりは鮮けき鱗の影も見えず。此處より勝浦迄新道あり、興津に至る一里の間、一方は海に一方は絶壁にて、岩の質脆きためか、折々崩れ來りて行路危ふし。興津は景色よき處なり。近海昨日より鰯の大漁なりとて、何處の漁村も鰯ならぬはなく、乾鰯にすとて砂濱に晒せるもの、恰も多摩川原に砂利の光れるがごとし。奮暦歳の暮とて、市たちて賑ひし勝浦の町を渦ぎ、白鴎群れ飛ぶ御宿も跡にし、畫かまほしき景色に富む大原の海も見捨てゝ、俥急がせて、上總一の宿に着きしは薄暮の頃なり。宿を東金屋といふ、客多くして室を得がたく、川村畫伯の親類なりといふ某辯護士と一夜を共にし、同畫伯にかゝる面白き話の數々をきゝぬ。
 十三日雨、滞在。
 十四日晴、俥を雇ひて北飯塚に知人を訪ひ、大綱より汽車、夜に入て家に歸る。房州根本の湯は、既に梅花地に委し、菜の花盛りなりしが、上總は稍寒く、下總に入つてはまた花を見ず、地上雪ありて寒風膚を刺せり。春より再冬に戻るれか旅なればこそ。(終)

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