寄書 講習會雜感

S、K
『みづゑ』第二十三 P.17-18
明治40年4月3日

 近來我國人の趣味嗜好非常に向上し來れると同時に洋畫殊に水彩畫に對する觀念も亦た昔日の比にあらず、從つて其の趣味も著しく普及し、やがてその餘波我長野市にも及び、此數年間に夥しく同好者を増したり。余も實に其一人なり。一昨年萩生田文太郎氏暫らく我市に逗留せられてスケツチ會成り、同年繪畫展覽會催されき。之れ實に空前の事なりき。されど萩生田氏の歸京と共に會は解散し、其後身とも云ふべき二水會は成りぬ。而して昨年は信美會により第二回の展覽會も開かれ、東京名家の作品も數多陳列せられぬ。經歴は云ひ得べくんば繪畫の嗜味發達に於ける當市の歴史は實に短日月なれども其氣運や日進月歩の勢なりと云ふべし。さればこそ昨年末數名の熱心家發起となりて同志を糾合し、遂に今回の講習會の學を見るに至りしなれ。
 時日及び會員講習會は一月二日より十一日迄十日間、當市師範學校を會場とし、會員凡そ四十人餘、就中小學校教員最も多く、學生次位を占め、其他諸方面の人を網羅し婦人も名ありしは萬緑叢中紅二點とやいはまし。
 日程、經過、名に負ふ冬の信州とて白皚々の銀世界、色彩の單調をかこたんよりは凍筆呵せんにたよりよからぬ郊外寫生―自然界の研究は竟に不可能、日々材料を替へて静物の研究をなせり。それ室内静物寫生は大方時季に關係せざるにより往々等閑に流れ易きものなり。さるを、こゝにこれを得たりしは復得易からぬ機會と云ふべし。夜分は一二時間先生の講話を拝聽し、尚有志は木炭畫の研究をなせり。かくする中に樂しき十日間は呆氣なくも瞬間に過ぎ去りぬ。九日夜送別を兼ねて茶話會を開く。十日には會員の作品を陳列し之に對し先生の批評訓戎等をうく。別に丸山先生の多數の寫生品、大下河合先生等の作品をも陳列して余等に示さる。十一日は臨時展覧會を開き一般公衆の縦覽に供せり。大下先生は十日に丸山先生は十二日に歸京せらる。
 大下先生の温厚、丸山先生の爽快、吾等は其温容爽姿に接したる間もなく直に送らざる可らざりき。鳴呼その時の感、何等かの不幸に陷るが如き懐に堪へざりき。恐らくこは一度先生に接する者の等しく感ずる所なるべし。さはれ此甘き甘き記憶は永久に吾等の腦裡を去らざるべきを信ず。
 利益、1.兎角種々の弊害を醸し易き正月を有益に且つ愉快に過しゝこと。2.競争、切瑳琢磨の効。慥に獨習に比し數倍進歩を早めしことゝ信ず。3.居ながらにして先生方の作品を視得たること。かゝる好機は再び來らず、我等の眼を肥し、參考となり、研究上稗益したること如何ばかりそや。4.其他擧ぐれば種々あれども煩を恐れて記さず。
 感概、先生方の熱心なる早朝より晩く十時頃迄も少々の休憩もなく東奔西走、殊に會員多數のことゝて極めて初歩の者より種々の階級者を含み、亦種類も樣々ありしにも係らず先生倦まず厭はず、一意專心指導せられたる懇篤なる教導實に感謝の辭なきを苦しむ。亦大下先生の來援せられたる一時は如何に吾等を奮起せしめしぞや。或る者嘆じて曰く「實に献身的だ!!」と。之を以て見ても如何に先生方の熱心にして吾等を感奮せしめ皷舞せしめしかは察するに難からず。
 尚又、吾人の快感に堪へず吾人の意を強うせしめしは小學校にありて教鞭を執らるゝ諸君の多かりし事なり。それ兒童教育と繪畫、人間基礎の半面を作る小學教育と繪畫の關係、其密接なる事、吾人茲に多く辯ずるの要なし。畢竟人は四圍の感化影響を脱する能はず。殊に感化の大なるは幼少時代を以て最とす。自然の感化、偉人の感化、或は良家庭、惡家庭の兒童に及ぼす影響皆是なり。是を思へば人を教ふるの道にある者の責任亦重大なりと謂ふべし。児童は彼等の手により什麼樣にも作り出し得べし。然るに斯の道にある教員諸君の多數なりしは最も喜しき現象にして、進んで高尚なる趣味を養ひ人格を修養さる、縦令無爲なりとも其感化の及ぼす所、推して知るべきのみ。吾人は我國人の趣味教青の幼稚なるを必ずしも悲觀せず。前程を憶ひて期待する所あればなり。遠からず趣味の普及、小アーチスト、小アマーチユーアの出でん事疑を入れず。薫陶の重任か負はるゝ敬愛する諸君、願くば斯道の爲、奮勵一番以て吾人の囑望期待をして空しく水泡に歸せしむる勿れ。至囑至囑。
 今後の覺悟、希望、吾等は今回競爭は實によき進歩の動機なることを感じたり。丸山先生の説に是迄先生の經驗によれば、如何なる現象にや講習會等などありて著しく進歩したる者も、やがて郷に歸れば時日と倶に進歩すべき筈のものが、事實は之に背馳して往々退歩する傾ありき、想ふに競爭者なく己惚心の萌すによるならんかと。之れ吾等にとりては實に頂門の一針、吾人は覆轍の前例に鑒み以て規戒とすべきなり。何事にまれ小成に安ずれば大器は成らず。況や一時も修養研究を怠るべからざる、技術想意の圓滿完備を要する繪畫に於てをや。修養は吾人生の畢る迄も踏むべき道なり。研究的態度の失せたる時は退歩の時なり。吾人は心の手綱弛まざらむ事を期せざる可らず。
 尚茲に吾人牢固たる覺悟決心を持して諸君と倶に盡力を要すべき一事あり。そは吾邦人、大人の趣味の缺陷にあり。假令趣味の下劣なる時代に生育したればとて事々物々進歩の世に此一事のみ依然たるは果して何の由來する所そや。吾人は彼等を高尚なる趣味に導かんと欲するものなり。事甚だ大言壮語に似たれども何ぞ空論に歇まん。我等乳臭兒如何に口を極め言を盡して彼等に美を説き趣味を言ふも彼等は耳を傾けざらん。釋迦に説法と聞き流さるゝはもとより覺悟のことなり。誠に以て已を得ざることなり。されど吾人は云ふ甲斐なしとて措くものにあらず。微少なりとも胸奥の趣味の琴線にふれたらんには何時かは美性發動して、美を樂しみ趣味を解するの世運に向はざるべき。吾人は斯道の爲彼等の耳底に達する迄絶叫すべし。願はくば忠實なる斯道の紹介者たらん哉。
 終に臨んで兩先生の勞を謝し、併せて主催者諸彦の斜旋の勞を謝し、尚會員諸君の健在を祈る。畢

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