美術館の水彩畫

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

大下藤次郎
『みづゑ』第二十四
明治40年5月3日

 去る三月二十日から開揚せられた東京勸業博覽會美術館には水彩畫が三十點近くある、第一回第二回の昔しは知らず、余が記憶してゐる第三第四回の博覽會には水彩畫は出品されてゐなかったやうだ、第五回の大阪の博覽會にては、中林といふ京都の畫家の小さな一點の水彩畫を見た、今年は西洋畫全體の上から見ても約三分一は水彩畫である、敢て點數の多いばかりでなく技術も確かに大なる進歩してゐる、且從來は水彩畫を以て立たんとするもの、三宅丸山兩氏と余とを合せて僅かに三人のみであつたが、石川氏は既に水彩畫專門と見るべく、次では中川大橋兩氏の如き有力なる人々が油繪の筆を投じ、尚織田一麿氏も一意この方面を研究せらるるとの事である、水彩畫の前途極めて有望なりといふべし。
 さて余自身は甚だ拙なきものを出して置ながら、他人の作品の批評など僣上の至りではあるが、『みづゑ』讀者に對する義務として、圖樣の紹介を兼ね聊か思ふ所を陳べて見やう、そして未だ會期も永い事であるから、其中の三四の作については更に細評を試むる積りである。
 七〇花園南薫造氏筆
 花園の奥に一寸家の見える小さなスケツチである。スケツチとしても甚だ粗雜なものあつて、強て批難すべき處もないが、また佳い處も見出せない。
 七一森の道三宅克己氏筆
 森といふよりも寧ろ林の中の一筋道で、全體が夕暮の黄な調子で、左の上部に樹の葉を透してオレンヂ色の光りが見える。筆遣ひも常よりは舒びやかで、見た感じは甚た佳い、強て難を言へば道路が右の方へ傾いて見えるのと、前景に同じやうな太さの樹木が三四本並んでゐて、それに遠近が見えぬとである、そして繪の中心、森の道の盡くる處あたりに何か目につくものが欲しいやうに思つた。繪はワツトマン全紙の縦畫で可なり大きなものであるが、このやうな一部分の感じを描くのに、これ丈け大きなものには及ばぬことであらう。
 七二船夫五姓田芳柳氏筆
 荷船が半分現はれて船夫が一人艪を押してゐる小さな繪である。穩やかな海、華やかな日の光、その日の光を浴びて立てる船夫、色彩は貧しいが快活で、弱い調子の繪としては中々手際よく出來てゐる。
 七三麥燒く夕丸山晩霞氏筆
 ワツトマン全紙で、上州吾妻河畔の村落の夕暮を寫したものである。中央には白く光れる川あり、左右の崖上には農家三五、そこから所謂麥燒く煙りが盛んに起つてゐる、そして遠景は信濃あたりの高山が巓を見せてゐる、前景は初夏の茂れる緑で暮くなってゐる。余は初め此繪を丸山氏の畫室で見た時には、モツト空の色に紅を含んでゐて、如何にも初夏の夕暮の感が充分であつたが、光線のためか額緑の關係か判らぬが、この會場で見るとダイブ調子が異つてゐる。三宅氏の一局部の描寫と反對に、これは幅は二三里と見えるといふ眼界の濶き場處を選んだもので、視る人に大きな感じを與へる。若し今一層煙を多くして遠山を淡くしたなら、猶更結構であらうと思はれた。
 七四朝の明治丸渡邊錦吾氏筆
 西洋形帆前船一艘、一本の帆綱も見落すまいといふ意氣込で描いてある小さな繪である。朝の趣も見えず、何等の面白味も感じない、寫眞を見て描いたのではあるまいか。
 七五夕暮森本茂雄氏筆
 全體を點で描いてある所謂印象派の畫で、丘の上に杉五六本、それに強い夕日が輝いてゐて、杉の後ろに夕月が出でゐる。大きさはワツトマン半分位ひ、強い感じはよく現はれてゐて手際も惡くはないが、月のある空の色が稍不自然であるまいか。
 七六月夜中川八郎氏筆
 半切の縱繪で、空には白い雲が層をなしてゐて、中央に暗い森があり、森の下に燃火のある二三軒の家がある。そして月は見えず、地に家の影を見せてゐる。月夜としてはよい見付方で、夜の靜かさも偲はれる、空はモ少し明るい方がよいと思つた、下の家の描き方は甚た不確で不親切である。
 七七たそがれ細井未明氏筆
 手際のよいキレーな小さな繪で、夕暮の空、一叢の枯木林、靜かな水も見える。
 七八アルカザルの庭 吉田藤尾女史筆
 洋風の規則立つた庭園、鉢植も少しくありといふ十六切位ひの小さな繪である。行届いた描き方であるが、地面に在る影の色が少し紫ポク見える。
 七九ベニス吉田藤尾女史筆
 四ッ切位ひの縱畫で、可なり強い熱色が使つてあるが感じのよい繪である。筆にも力が見えてコセコセした處のないのは嬉しい。
 八〇夏日河合新藏氏筆
 前號で諸君の御馴染の繪で、大きさは半切である。竹その物の性質から來たのかも知れぬが、スッキリとして視た目は甚だ愉快である。竹藪の下の地の色が暗く、全體に色が貧しいといふ難もあるが、竹の繪としては成功したものであらう。
 八一風景松原一風氏筆
 景色畫に風景といふ畫題はあまり考がなさ過る。圖は雜司ヶ谷の槻らしく、小さな色の寒い繪である。描法も極古臭く、自然の見方も粗雜の樣に思はれた。樹木の色と地面の色との調和も惡い、マネギの手拭の色にも厭味がある、たゞ細かく寫してあるといふ點だけ取り處であらう。
 

ゼームス、ビースオード筆

 八二滿洲の風景石川欽一郎氏筆
 小なる二救の縱畫を一つの額縁へ入れてある。此會場に出品されたる多くの水彩畫の額縁は、畫家が相應の注意を拂つたのではあらうが、よく繪と調和してゐるのが少ない。石川氏の繪は此點に於ても成功してゐる。圖は氏が滿洲滯在中の寫生で、場所の異つてゐるのみでなく、人物の活動もよく現はれて面白く見られた。氏は其作を示す毎に、色彩は豐富になり、調子も確りして來て、著しく進歩の見ゆるは感服の外はない。たゞ全體の色の上からコバルトが多過る樣は思はれた、滿洲の色であると言はるればそれ迄であるがヤヽ目障りであつた。
 八三樂器織田一麿氏筆
 ワツトマン全紙の大作で、赤き華々しい色の樂器が中心となつて、左の上部へかけて白百合の花が夥しく置かれ、右の下部には能の面がある。寫生は忠實で、頗る苦心の作と見受たが、全體が何となく固く、殊に花が紙細工の樣に見えたのは筆者の一考を煩はしたい處である。
 八四 滿洲の風景石川欽一郎氏筆
 八二と同評。これは三枚を一つの額縁に入れてある。
 八五古代の獵裝五姓田芳柳氏筆
 狩衣着けたる武士が立つてゐて、其左の方に馬が居る小さな繪である。構圖、描法、色彩、何れも感服出來ぬ繪で先生の作としては失敗であらう。
 八六とりいれ中川八郎氏筆
 半切の横畫で、拜島あたりの秋であらう、夕日は未だ屋後の紅葉せる梢に殘つてゐるに、空には圓い月が出てゐる。稻を取入れてゐる農夫二三、秋の日の短かいのを喞ちつゝあらん。總體に色彩に富んでゐて愉快な繪である。秋の夕の感も充分に見えてゐる。圖抦の複雜した割合に統一もある。但慾を云へば限りはないが、我々のやうに多く自然に親しんでゐる者の眼から見ると、多少の缺點が見出されぬ事もない、繪に其感じさへ出れば何でもよいやうなものではあるが、感じを現はすと同時に自然といふことも忘れぬやうにありたい。此繪に於て一番目についたのは月である、月が球状をなして前の方に凸に見ゆるは如何のものにや、次は東の空の色が重過て秋の夕としては物足らぬ、家の後ろの森が家よりも前へ出て來てゐる樣に見える、田の刈跡の緑の草が、恰も夏野のそれの如く長短不揃なのは自然ではない、此繪の佳作であることは否まぬが、忠實に自然を研究した結果であるとは思はれなかつた。
 八七牡丹大橋正堯氏筆
 同じく半切の縱畫で、鎌倉某寺の庭を寫したもの、前に白牡丹があつて左の方に石燈籠、其後ろは木立になつてゐる。晩春の趣はよく現はれてゐたが、後ろの木立にモー少し色を見せて貰いたかつた、木立の色があまり寒む過て繪が甚だ淋しい。
 八八夏の光丸山晩霞氏筆
 半切の横繪で、山中の崩れた崖に夏の日が照してゐて、下半分は暗い影になつてゐる、其黄に輝く崖の色と、前景の影の中の靑味を含んだ岩の色との對照が如何にも佳い、かゝる場處を見た事のない人は余のやうに深く感じるか如何かは知らぬが、余は此作を場中第一に推すを憚らぬ。歸つて來てからも未だ其感は目に殘つてゐる。若し余をして此處を寫させたなら、今一際崖の光を強くするのであるが、それでない方が却て自然であるかも知れぬ。
 八九ちやぼ坂井紅兒氏筆
 白いちやぼが二羽描いてある小さな繪で、形は中々正しく寫されてゐる。筆遣ひも器用で色彩もよい、たゞ羽毛が少し固く活働が見えぬのは遺憾である。
 九〇江流
 謙遜でも遠慮でもなく、甚だ御耻しい余の出品である。思ふやうに出來ぬため筆數ばかり多くなつて、コセコセしたウルサイ變なものになつて仕舞つた、そして更に描き直す暇もなく其儘出したのである。圖は大判ケント二ツ切の縱繪で猪苗代の疏水を寫したもの、中央に靜かな流れがあり、後ろには緑の山があり、右の岸には茂れる柳五六本、其影は深く水に映じてゐる。堤の盡くる處に橋があつて、小舟二三、傍に白い水禽が二羽流れを亂してゐる。たゞこれ丈けの繪で、夏の水邊の靜かな感じを描ふと思ふて失敗した作である。
 

海老名研二筆

 九一花織田一麿氏筆
 筆の達者な繪で、紅と白との牡丹の花三四輪極めて配置よく寫されてある。ドチラかといへば洒落た繪ではあるが、八三の樂器よりは此方がよく思はれた。
 九二雲三宅克己氏筆
 四ツ切位の繪で地平線を低くし、一列の黑い森が見えてゐる、雲は空一パイに描いて、處々に碧色を見せてゐる。雲も森も前景も同一筆法で、殊に前景の説明があまり粗末ではあるが、雲を寫した繪は他になく、其雲もよく感じが出てゐて、同氏の森の道よりは此方が好もしいやうだ。
 九四朝霧堀規矩太郎氏筆
 中央に圓い山があり、中腹に紅葉の林、前景に稻叢など置かれてある極淡白な四ツ切程の大さの繪である。此作者は、霧といふものは繪具をうすくつけるものと誤解してゐるのではあるまいか、近來トント見かけぬやり方で、何だか十年も跡の展覽會に立戻つたやうな氣がした。
 九五夕日磯部忠一氏筆
 半切位ひの横繪で、並木に強い夕日が射してゐて、道の先の方には白馬を逐ふてゆく人物が一人、印象派のやり方である。點で描いたものとしては調子もよく、キラキラした夕陽の趣もよく現はれてゐた。
 九六大崎の雪古川新策氏筆
 鑑査官の氣紛れで出したものであらう、十六切位ひの縱畫である。
 九九鶴ケ岡大橋正堯氏筆
 半切横繪で、冬枯したる杉の森、枯れたる草、前景僅かに水が見えて、澁い快よい調子で出來てゐる。右の上から左の下へと極まつた筆遣ひが一寸眼につくが、此繪として格別難とするに足らぬ。強て言へは引締まつた處がないが、色に少しの厭味のないのと、筆つきの素直であるのとは此作者の長所で、余は丸山氏の夏の光に次での作であると思つた、そして石川氏と同じく年々進歩の著しいのには感服せざるを得ぬ。
 以上は陳列せられたる水彩畫の總評である。美術舘はいつも雜沓してゐるので充分に觀察する事が出來なかつたため、極めて公平に評をした積りではあるが、多少の見落しや間違はあるかも知れぬ、且ある作品に對しては幾分か言ひ過た處もあつたかむ知れぬ。その點は作者及讀者諸君の御宥怒を願ふ。

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