トーマス、ギルチン[下]

青人
『みづゑ』第二十四
明治40年5月3日

 ギルチンの大傑作曉の光景のブリツヂノースの如き雄健で實に印象單一である。また日沒の景、ホワイトハウス・アツト・チエルシーの如き畫風單純にして廣濶、ターナーの稱讃して措かざるものである。或る朝一★估の來ツてターナーの繪を見て、いふには、『何れも甚だ結構であるが、私はこれ以上の結構なものを持參しました』。『それは何んなものであるか知らんがトーマス、ギルチンのホワイトハウスアツトチエルシーの外にはあるまい』とターナーが答へたといふ事である。
 このホワイトハウスの水彩畫は當時ホレーシヨ、ミコルス氏の所有で、ターナーの水彩畫と相隣して掛ツて居る。この室にはデヴイツドコツクス等の水彩畫も掛け連ねてあるのである。ギルチンの作畫法はその目的點に直通して、苟も贅筆を用へない。その作品は素より巧妙であるが故ではあるが、常に筆力が雄健で、軍隊的の直裁があり、犯了べからざる威嚴がある。圖抦が大きくて、完全して、しかも落付がある、色彩は沈静であるが低い調子の中に不知不識に引付けらるゝ樣な不思議な光輝がある。素より和かな光輝であるが室内全體を靜に照らして居るやうに思はるゝのである。ギルチンの優麗な佳作は眼を接近して見るときは分らぬけれども、一定の距離を隔てゝ見ると、光線や厚さ等が燒點に依て明に分るのである。ターーの影響はかゝる點に於ても少しも受けて居らぬ。ターナーの筆は頗る巧妙に艷麗ではあるが、これを以て名玉として賛することは出來ない。その想像の作用や色彩の妖艷なる處は壁間の粧飾には餘り微妙であるといふものもある。誠にターナーの水彩畫は紙匣中に藏すべき財寳であツて、こたを至細に注意し、または日光に晒らして研究すべきものではない。
 

島村安三郎筆

 これに反してギルチンの繪は紙匣中に藏すべきものではない、立派に額椽に入れて、光線の良好な處へ掛くべきものである。唯こゝに注意すべきことがある、それはこの調子の沈靜な、圖抦の大きなギルチンの繪に對して、他の作家の名畫を連ねて、技を競いしめることは斷じてすべきことでない。しかし他の水彩画には、ギルチンの最も優麗な水彩画に匹敵するものは恐らくあるまい。近代の水彩画で最明るい調子で精鮮に描いたものでもギルチンの作品の側へ持て行けば、膿朧として汚いものとなるのである。
 こゝに少しくギルチンの運筆と畫風の重みを語らう。ギルチンは画面に向ツて筆を遣ること自由で快速でしかも一點の誤りをなさない。目と手とが隱約の間に共に感應して働くやうである。氏は好んで、廢寺、廣場、壯巖なる寺院、肩摩殼撃の市街、荷馬車の馭者の一列、廣野の寒き曉、山間の瀑布、巴里の古昔の光景、質朴なる英國の田園、或は流に沿ふた古家の亂れて並べる處等を描いた。
 氏のタツチは活氣があツて加ふるに快速で、意味の含畜があツて、苟も下した彩筆の一點たりとも决して、そつがない、氏の友人が氏の執筆の樣を見て、舞筆の妙宛ら劍舞を見る觀があるといふて居る。こゝに記憶すべきはコツトマン、ターナー、デウイント、アール、ビー、ボーニングトン其他の畫家がギルチンの下に來てこれを見て大いに益する所があツたのは事實である。實に十九世紀の前半朝に大英國水彩畫が隆盛であツたのはこのギルチンを中心として諸名家が起ツたからである。猶記憶すべき一事がある。レスリーの著「コンステーブル言行録」に「ギルチンが天才靑年畫家等に及ぼした勢力は、水彩畫家のみでなかツた。コンステーブル自身も、ギルチンの作品三十餘點を研究して、油繪風景畫の描法の全部の方針を換えた」とある。更に記憶すべきことがある。コンステーブルの技術はコロー、ローシユー、ドビニー等の佛國派の直接な先驅である、コンステーブルの技術はギルチンを學んで得たるものであるから、頓でこれをギルチンの勢力といふて好いのである。
 畫風の重み、これは畫全體からいふと、僅かな性質で、或は批評家が眼中に置かぬものもある。キルチンは自然を圓きものとして觀察した。氏が作品中には物の輕重を明かに描いてある。例之ば氏が作品クニーセントデニスを見よ。家屋は堅固に、その土臺の上に直立して、眞の建物の如くに厚さが見える。そこに集まれる群集も活溌で生氣がある。
 猶多くを言はんでも、ギルチンが英國水彩畫の諸名家中に秀てゝ居ツたことは前陳の事抦で分明である。二十七年餘の短生涯に於て、同輩を抜きん出て、堅忍不抜の志を以て創作に從事し忽にして師表と仰かれたのであツた。ターナーがギルチンの事に付て喜んで語ツて居ツた言に、「トム、ギルチンが生きて居ツたならば、私の腮が干上がる」と。
 ギルチンの傳記は他日に讓ることして、こゝには唯ギルチンは佛國人の血統であッたといふ一新事實を記して筆を擱くことゝする。
(完)

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