そのをりそのをり

三宅克己ミヤケコッキ(1874-1954) 作者一覧へ

三宅克己
『みづゑ』第二十四
明治40年5月3日

 前略金言名説は何處に於て見るべきや計り難きものに候、小生在京の折、かの明治美術會大會の報告書偶然來り候ゆへ、札幌へ歸る汽車中の徒然を慰むるため、面白くもなきは覺悟にて始めより終迄通讀致候。
 花房會頭の演述も有之、小山畫伯の演説も有之、林忠正氏、其他レガメー氏の名論卓説何れも感服仕候、併し小生は、獨り林氏の演説に就ては誠實敬服仕候、小生は近來珍らしき訓言として幾度か熟讀仕候、實に氏がこの演説中にも言はれし如く、氏が此演説は、獨り美術會のみならず、世間一般への忠告に相違なく、流石に高き眼識を具へて佛國にありしたけ、他の諸家の話とは生と死との違ひ有之にやと存候、林氏の演説は、眞に現今美術界に於ける最も大なる注意を適切に述べられしものにて、我々書生輩は唯々忠告を守つて進めば、他日必ず成功の日あること疑ふぺからずと存候。
 

故中臺枯星筆

 美術の發達は宛も五穀の成熟を待つが如く、决して一夜の細工にはゆかぬ事、誠に氏が言の如くに候。繪畫に對する精密なる約束を説きし處は、小生の尤も多く同意する點にして、我々はこゝ二十年間は、その約束を守つて研究しゆかば、必ず見るべきものを出すべしと信じ申候、殊に氏が言れし如く、
 美術家は中々他の學問を爲す人と違って、終世逆境に立つものである。故に誤て美術家に落ちたるものは豫め其覺悟が肝心である、丁度耶蘇宗が未ば弘まらざる前に困難したエライ坊さんにでもなつた心持で、自分は一生この事に心を入れて居ても、生て居る内には迚も人には知られぬといふ位の覚悟でなくツてはならぬ、さうして今言ふ三ツの約束を研究する一方で一生を終る覺悟でなくつては、本當に日本の基礎となるべき美術は出來ぬだらうと思ふ。
 鳴呼何等の訓言ぞ、小生は斯る立派なる教訓は未だ月本人の口より聞しことあるなし。
 又曰く、
 其位六ヶ敷困難なものであるのに、三年か五年の間にドウモ去年より一向進歩が見えないなど言ふは、世間の人位い無理なものはない、《小生は言ふ否單に世間の人に限らず、已れ自身も此種の一人にあることあり。》ソレデ會員は氣を長くお持ちなさいといふことを忠告する。
 我等書生にとり、右の如き教訓は確に光明に達すべき燈かと存候、徒に右の約束を缺き、如何に世間に向つて運動を試みるも、博物館や美術學校に向つて運動をしたからと云ふて、別に腕が下らうとも上ることはない、故に唯々右の約束を守つて行けば進歩する事は確であると、氏の百は愈我が肺腸に染み入りて無限の力を得申候。
 廣き世間には斯くも親切に誘導なし呉れる人さへあり、必ず氣を長くすべし、一夜造りの家は一朝の嵐のため吹き飛さるゝにあらずや。
 我靑年畫家の、旭の勢ありしものが、年々歳々其技倆下り、西山日沒の姿を呈するは、即ち林氏の所謂約束に依つて出來上らざりし證據には無之候哉。
 大器晩成。誠に三年や五年位にて、其好果を見むと欲する者は到底日本の基礎ともなるべき美術の創作家にあらずして、一夜に咲き亂れたる野の花の如く根もなく葉もなきものに候。一年に一寸の進歩は是れが即ち妙奥に達するの途にして、决して他に求むべきものなし、世の靑年有望の畫家神童と稱せらうるものでさへ、年々歳々一分の進歩を見る能はざるのみか却て一寸一尺の退歩を見るにあらずや、小生の如きはタトへ進まぬ迄も退歩せざれば滿足する考なり。
 山あり川あり谷あり又平原ある幾百里の旅路、唯々先へ達することのみ思ふて進む人は、終に疲勞に堪へ兼ね到底其半途にも達する能はざるべし、悠々然として一歩又一歩、遂に怠らざる人こそ何時かは其目的地にも達し得べしと存候。
 小生若し、我等が一年一寸、否一分の進歩あればその喜悦之に過ぎざる事に候、幸ひ我かの光明とも稱すべき一大教訓は、林氏を透して明治美術會報告書に出づ、
 小生は近來珍らしき忠告として林氏の演述に感じたると同時に、兄等と共に研究いたしたく聊か其所感を陳ぶ如此候。
 三十二年五月札幌にて

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