奈良の一夜

鵜澤四丁ウザワシテイ(1869-1944) 作者一覧へ

四丁
『みづゑ』第二十四
明治40年5月3日

 奈良は今更に僕の拙文を要する程の未知の地でない事はいふまでもない。町には旅館軒を並べ、靑丹よし奈良名物が處々の店頭を飾る程のポピユラーな日本の名所である。實に外人の筆にまで紹介せられ居るのに、僕には未見の地であツて、この外人の紹介によツて夢の如くに知ツて居ツた。このネチーヴランドの一部を外國人の紀行に依ツて初めて知ツたとあッてはわれながら汗顔の至である。
 京都を朝から午後まで休まず歩いた足で、關四鐵道で奈良へ著いたのは、午後の四時過、だらだら上る奈良の坂町を何處か古風な旅舍はあるまいかと、そろそろ南圓堂の下まで來てしまツた。繪や寫眞では毎度お目に掛ツた五重の塔が見える。忽ちにパーソン氏の「日本の春」を思出した。あれは丁度櫻の喉く頃、五重の塔の前景には櫻花を點じてあツたと記憶する。今は荒凉たる枯木ばかりだ。兎に角に七堂伽藍の跡へと上ツて行ツて見やう。櫻がなくとも七堂伽藍八重櫻の昔が偲ばれる。日は既や暮れかゝる。枯芝の邊に遊んで居る二三匹の鹿が餌を求めて僕の方へ來る。夕風寒き古都の枯芝原に族人の僕が頗る調和したやうにも感じられる。二匹の鹿を前景に奈良の町を見下して、遠く一株の連山が見える、手元の暗くなツたので餘儀なくも鉛筆のスケツチに留めた。こゝで曾て武州の山村肝要村に獵銃の銘人猪虎を訪ふて圍爐裡邊に酒を暖めて得意の獵談を聞いた中に、鹿の話のあツた事を思出した。その時に猪虎に贈られた鹿笛の事から、★々と鳴く鹿の音に「づさころし」といふ吹方のあると聞いたことも思出した。「づさころし」には面白い噺がある。「づさ」といふのは木の名で、並立錯綜して居る幹が夜風に轢合ツて音がする。これが丁度妻戀ふ鹿の鳴音に似て居るといふので、雌鹿がこの音をたよりにこの邊に憧れ來て、物をも食はずに寢て居て遂には死んでしまツたとある。こんな事を思ひ出して、秋ではないが、何となく物のあわれを感じつゝ、こゝを引返して、とある宿屋へと著いた。實は二階から五重の塔のスケツチの出來る處をと撰んだつもりで。
 上へ上ると餘り座敷は奇麗でない。破れた火鉢に焚下としの火を入れて來る。首の曲ツたやゝともすると心の出過ぎたがる臺洋燈が來る。これはやゝこゝに過ぎた幽禪メリンスの小座布團が出た。茶を飲んで居ると、お風呂をお召しなさいといふから、宜敷といので下りて行くと、内の年寄が直近所に湯屋をして居るので、それへ案内しますとあるには一寸と閉口したが、甚だ疲勢れて居るので、一と風呂浴びて歸ると、直に膳が出る。膳部は頗る古風だ、ぶつ切りの鰤の刺身は可いが味は甚だまづい。嬉しかツたのは、名物霰酒に菜漬を丼へ一杯持ツて來てくれたのであツた。これをちびりながらに繪はがきを三枚製造した。陶然としたはよいが一人旅の悲しさに、誰に氣焔を吐くよしもない。空しく酒氣を壁間に吹いて、飯を呼び、そこそこに寢に就いた。
 相當の茶代まではづんだにしては、催促せねば寐巻もくれぬ不仕末、寐具の綿のこつこつは、パーソンス氏ではないが、寢るのに骨が折れる程だ。しかし難有い事には前日からの疲勞と霰酒の力で、朝までぐツすりと寢込んだ。
 翌朝小早く飛起きると下ではまだ漸く下女が起たばかり。其手を待ツて居ては何時になるか知れぬと、自分で二階の雨戸を操ツて五重の塔を寫生しやうとしたが、何となく氣乘りがしないので、鉛筆のスケツチとして、南圓堂の畔をやらうと、箱と三脚を持ツて一寸とそこまでと宿へいふと、朝飯は直に出來ますからお早くお歸りをといふ。そのつもりで出て行く。南圓堂の一部の鐵鈴が下ツて居て、朝の黄な空に對して一寸と面白い感じがしたので、一時間許で九ツ切りに水繪のスケツチをした。ワツシの乾く暇にはわたりの練塀の崩れた所などを鉛筆のスケヅチなどして、仇に時間を消さない工夫。それもこの日の正午過に伊勢路へ向ふ心算であるから。
 これをこそこそにして宿へ歸ると、何の事だ。まだ飯も出來ず、搗て加へて寢具もそのまゝであるのだ。しかも昨夜は客たるものは僕一人であるのに。暫くして飯を濟して、急速を尊ぶ處から春日神社から大佛までを俥で見物することゝした。例のかたんかたんと音のする俥に乘る。車夫は草履ばきで、まづごろんごろんと曳出した。猿澤の池から初まる。車夫は案内者を兼て居るから、一寸とそこへ止ッて、人皇五十何代の御世にと説出した。するとその側にも七八人の旅人を相手に猿澤の池を説いて居る案内者が居た。旅人の内の一靑年はあツぱれな名文の紀行でもものさうといふのかノートブツクを出して、眞面目な顔で筆記して居るのがあツた。これから上ツて、春日神杜の一の鳥居、續いては公園の末の枯れた杉や藤蔓の工合、パーソンス氏の繪はこゝだなと合點かれる處もあツた。二の鳥居の處には鹿が非常に屠る。尾籠な事だが僕は鹿の糞を初めて見た。兎の糞と大きサも色彩も同じだ。膽玉の小さい奴は線香のやうな糞をすると聞いた。して見ると鹿は小膽なけちな奴と推斷がつく。爭はれぬものだなと考へる。
 進むと繪はがきを賣ツて居たので見ると、寫眞版の外に水繪のもあツた。總じて惜しくもないものばかりだ。
 有名な春日燈籠の盛に並んで居るのに驚かされながら、折々鉛筆スケツチに立留ツて案内者を驚かして、説明を折々うはの空に聞流して、社殿を通り抜けて、鹿角細工や奈良人形、鐵打物をひやかして、三笠山一名若艸山を見ては靑けれは美事であらうと考へ、二月堂から修繕中の大佛殿等を瞥見した。松杉等の古木や建物の古び工合、流石に古都の面影が偲ばれる。ゆるりと一二週間をこゝに寫生に暮したい氣もした。しかし洋風の建物の處々にあるのは奈良とは甚だ調和しないやう感じもする。俥で宿へ歸ツて時間を見ると、伊勢路へ發する汽車にはまだ三四時間はある。これは更に徒歩で行ツて、何處かを寫生しやうと、またも春日神社の方へと足を向けた。俥では近いと思ふた道が、徒歩ではなかなかにある。漸く二の鳥居近くで、燈籠の五ツ六ツ並んだ奥深い森に赤い鳥居がちらちら見える處が面白かツたのて、寫生にかゝツた。こゝも一時間許で。
 昨日の曇に引換えて今日は空風の大路に砂を上げて、滿足に眼を明いては徒歩けない程である。これでは寫生には何とも致方がない。一時間餘を奈良停車場に列車待つ間に鉛筆を走らせて。(完)

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