片山潜氏の繪畫鑑賞談

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

汀鶯
『みづゑ』第二十四
明治40年5月3日

片山潜氏の繪畫鑑賞談汀鴎
 ▽この程米友倶樂部で片山潜氏に逢つた、氏は人も知る如く社會主義者で、勞働者の味方として常に米國に居らるゝ人である。
 ▽名ばかり聞いて居た時は、甚だ殺風景な人であらうと思ふてゐた處、話して見ると大違ひで、殊に驚いたのは、氏は美術上の事に極めて明るく、且非常に多くの趣味を有して居られた事である。
 ▽氏は世界往く處として美術館には足繁く通はれ、古名家は元より、現代大家の作も皆よく暗んじて居らるゝ、そして僕が尤も敬服したのは、氏が美術品を見るその鑑賞の手段である。
 ▽氏が始めてロンドンに往かれた時、同行の友人と共にナシヨナルギヤレリーを訪ふた。氏の友人は多少美術眼を有する人で、繪畫史などにも通じてゐるので、館内を見てあるくうち、氏が傑作であらうと思ふものを友人は冷笑してゐる、氏は此冷笑に逢つて、自己が繪畫を見るの眼識の高からぬを感じ、其日以後は、たゞ一人にて畫堂へ往き、自ら大に研究した。
 ▽氏はロンドン滯在六週間のその間、暇さへあれば畫堂内の人となつた。そしていよいよ明日ロンドンを去るといふ前日に、前の友人を連れて畫堂に往き、一々自己の佳いと思ふ作を指摘した。
 ▽この時その友人は大に驚いて、君は僕の繪畫史を讀んだなといふ、否その書は君が常に携えてゐるではないか、僕は僕一己の鑑賞法によつて優劣を別ち、自ら信ずる處を陳べたのに過ぎぬと答へた。
 ▽さて氏の鑑賞法とは如何にといふに、先づ畫堂に入つて多くの繪を見る、そして自分が佳いと思ふものを選み出す、その選み出した數十枚を、一々檢査してゆくに、あるものは顔が佳くして脚が拙い、あるものは山が巧でも水が不自然である、素人眼にも缺點の見ゆるものは、決して佳作といふことは出來ぬ。
 ▽かくして一室の中の數十枚は、選み出されて數枚となる、その數枚を、更に比較し研究してゆくと、終には一枚になる、このやうな手段で、全館數十室の繪を見てゆく、而して又更にその内の優等品を比較してゆくと、最後に殘されたる一枚が、全館中最も佳い繪であることがわかる。
 ▽これは甚だ危險な視方かは知らぬが、自分の物の選み方は常に此方法によつてゆく、そして未だ曾て正鵠を誤らぬと氏は言はれた。
 △美術の鑑賞は、相應の素養學問が入るから、恁る方法を誰れが行つても間違はないとは云へぬ。併しながら、其道ならぬ人としては、此方法は最も安全な觀方であらうと思ふ。
 ▽氏の如く同情に富み、熱心に、秩序的に繪畫を見て呉れる人は世間に澤山はない。吾邦の評家といふ人達も、少しく此心得があつて欲しい。このやうにして繪を見て呉れゝば、描く方でも張合があつて、自然傑作も多く出る譯である。
 △次にまた、氏が古畫に對する觀察が面白い。氏の言はるゝには、古畫は甚だ解し惡い、初めのうちは面白くなく思つた、然し諸國を巡つて澤山見てゆくうちに、漸く其味を解し得て、今では古大家の繪に對して、多大の尊敬を拂ふやうになつた。
 ▽而して、如何にして古畫が解し得られしかといふに、假令ば先初めに知らぬ人に逢へば、其人のホクロとかアザとか、一番眼につく、そして髯があつたとか、眉が大かつた位でよく其人は解らない。次に逢へば、顔や次女の大體の輪廓がわかリ、追々懇意になるに從つて、齒の缺けたのも分る、いろいろな癖も分る、進んでは心持迄も分るものである。
 ▽さて其人の心持迄も分るやうに親しくなれば、最初に眼についたホクロや眉は最早眼中にない、多少の癖も氣にならぬ、只々其人の精神を知る許りである。
 ▽古畫に對するのもこれと同樣であつた、初めは眞黑だとか磯ないとか思つて見てゐるうちに、段々繪のうちの美所が解し得るやうになり、終には其繪を描いた畫家の精神迄も想像さるゝやうになつて仕舞ふ。
 ▽隨つて、初めに黑いとか穢いとか思つた點は、いつか忘れて形態の上の醜い處などは少しも心に留まらなくなる、そして後には、其畫家の精神に迄立入つて、美しい感情に同化されて仕舞ふのであると。
 ▽實に氏の如きは、眞に美術を愛する人である。世に紳士といはるゝ人々よ、希くは自ら畫くこと能はざるも、氏の如く美術を味ふ事か得る人になつて頂きたい。
 

水彩畫研究所三月例會一等赤城恭舒筆

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