清境に就て

丸山晩霞マルヤマバンカ(1867-1942) 作者一覧へ

丸山晩霞
『みづゑ』第二十五
明治40年6月1日

 口繪は、一昨年の夏描た繪で、昨春大平洋畫會に出陳したものである。場所は信州淺間山脈湯の丸山の裙野にて、吾妻河の水源である。この附近に鹿澤温泉といふのがある、深山のことであるから氣候涼しく、盛夏の好避暑地として又夏の緑の研究にも最も適して居る。空氣は澄明にして水蒸氣多く、湯の丸山嶺は絶えず白雲に掩はれ、丈なす夏草は滴る如き鮮緑を呈して、これが山下しの風に波立つて、低き雲はその上に影を落して、或は明或は暗となりて、變化極り無きの直感は寫生の筆を下す事が出來ない程の活動である、そして曇ると見れば忽ち雨が降り出し、晴天のときは趣が乏しい、この繪は今にも雨が降り出さんといふ感じを描たので、頗る苦心の作であるが、自分の感じた十分の一も現はすことが出來なかつた。清境と惑じたのは、幾日寫生に出かけても人に會することなく、展けたる裾野の澤にまで草茂り、隠流の響きはこれぞ源泉にて、雲の中には杜鵑啼き、草の裡には鶉啼きて、これ等の天樂は這般の景に適合して、清境の感を惹起したのである。
 繪畫は自然活動の直感を描き現はすものであるが、感を現はすといふのは第二のことで、美感の要素たる形と色を先づ第一に充分研究しなくてはならぬ、殊に風景畫にありては、夏の緑程無圖かしいものは無い。在來の日本畫は、寫意といふ事のみに重きを置き、畫の尤も貴ぶ可き形や色を輕視したため、色彩の智識は頗る幼稚である。夏の自然界は緑であるといふ事を觀念し、その緑は青と黄の混和したるものをもつて、自然を寫生しながら實際の色を着けないで、自分の頭腦で定めた色を以て描て居るものが多い、故に初學者の寫生したものを見ると、遠近明暗等が同じ緑の濃淡のみで出來て居る、これでは寫生で無く想像畫である、寫生の貴いのは自然そのまゝの色を現すのにありて、自然が示して居る緑には等しく緑といふてもその種類は頗る多いので、人々の想像以外の變化色があるから、これを現はさなくてはならぬ、例へば紅味を帯びしもの、黒味を含みしもの、茶勝ちのもの黄勝ちのものがある、これを充分に觀察し、パレツトの上に各種の色を混和して自然の發色に似たるものを作り、それを着彩したものが寫生の色である。自然界の緑は、單に黄と青の混和といふ念を去らなくてはならぬ。冬の常盤樹と初夏の新緑及び盛夏の色等を注意し、又草木の種類と、晴曇、朝夕、雨中、雨後等に現はるゝものと、山中の都會の草木とに注意を拂へば、種々なる變化の緑を自ら承認する事が出來る。斯くも變化極り無き種々の緑を描き現はす事の至難なる上に、緑は變色しやすき色である、これは黄の褪色するためてある、故に黄味を強くするのがよい、如何に黄味を強くするとも、全體に於ける色の調和を得れば少しも差支ひないのである。
 山を描き又は野を描くにも、透視畫法を誤つてはならぬ、透視畫法は、人工物の規則正しきものにありては正格に説明する事が出來るが、山野の如き自然の曲線形にありては説明する事が難いのである、これを規則正しく説明するには、曲線形を直線形となして描くのである、先づ人工物に於てその理を究め、自然の曲線形に應用して描くのである、そして直線は誰の目にも正不正を見出す事が出來るが、曲線にありては、修養せざるものゝ目に、その曲りたる實線を認める事が出來ない。輪廊を描くに曲線を用ひては、實形は描けないのである、故に輪廊に直線を以てせよとはこれがためである。口繪の圖の如きは、凡て曲線にて出來て居るから、右の理を以て描かなくてはならぬ。形の透視畫法と色の透視畫法があつて、前者より後者が至難でこれは前者の如く系統的に説明する事は出來ない、要は光線と空氣に依て現はるゝ色であるから、研究の結果自ら悟るのである。初學者にありては遠近の色を認識する事が出來ないため、形のみは遠近が現はれて、色に於ては更に遠近が描てないから、畫は平面に見えて圓味と奥ゆきが無い、これは色の遠近を究めないからである。左に掲ぐる圖は遠近の色を認識する器であるから、初學者は試むるのがよい。
 

 右の器はボール紙を横二寸縦五寸程に切り、圖の如く縦に巾三分長さ三寸程の穴をうがち、全面を黒く塗りたる者である、着色を爲す其時器の穴を透して實景を見ると、下の部は近色にて、漸次上部に向つて遠くなる色を明かに認識する事が出來るのである。假にこの器を色認器といふ名稱を附して置く。全面黒色の細き穴より透して見ると、他に視力を奪はるゝ明が無いため、誰の眼にも遠近色が見らるゝのである。運筆も遠近といふ觀念を以て下さなくてはならぬ、遠近同一の運筆をなすと、色や形に遠近はありても、筆痕の爲めに遠近が破らるゝ事がある、凡ての場合に於て、前景は強き筆力を現はし、漸々遠くなるに從つて筆力を弱めるのである。時にょりては中景より先の方は清淨なる水にて洗ひ、更に淡き色を幾度か着けると、奥深い遠き色を現はす事が出來る。風景畫の至難とする處は、前景より寧ろ遠景にあるのであるが、兎角に前景のみに全力を注ぎて、中景より遠景は輩に淡き色を一二回位塗て置くものが多い、がこの弊は捨てなくてはならぬ、中景より遠景は一見淡色に感ずるも、仔細に觀察すると、その淡色には深味があつて、明かに認識さるゝ近景の色より複雜にして、これを描き現はすは容易の事でない、熟練せし人は調子の上にて二三回位塗りて、その深い趣きを現はす事が出來るが、初學者にありては中々に出來るものでないから、淡い色を幾度も塗りて描くのがよい、先づ初學者にありては感想を現はすといふ事は第二として、どこまでも自然に師事して、自然の示して居る形と色とに就て研究するのがよい、究むれば究むる程神秘的なる自然の美しい色彩も認識する事が出來るのである。
 口繪の圖は尤も活動ぜる趣きを現はしたものであるが、これは初學者には容易に寫生する事が出來ない、前にも述べし如く、畫の極致は活動せる自然の直感を現はしたものであるから、これを現はす上に於ては自然に親まなくてはならぬ、畢竟自然の懐に這入らなくてはならない、常に寫生帖を携帯して、活動せる自然の感じを書き記して記憶するのである。

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