僕の旅行

編者
『みづゑ』第二十五 P.12
明治40年6月1日

 僕が旅行する時は先づ地圖を開いて川に沿ふた地を選ぶ、渓流に沿ふた處の風景は大概美である。さて目的地に達した時には其土地の人の話を多く聞くのである、土人の云ふ景色は殆と奇景であるが、其奇景のうちにも自分の理想に合つたやうな處も察しられるのである。
 旅行の用意は輕装を尚ふ事は勿論である、履物は草鞋が一番よい、僕は緑の研究のため多く夏に旅行をするが一番困るのは毒虫である、曾て松明を翳して行つた事もあつた、飛騨山中のある處では檜の皮を燻べて腰に下げてゐた、虻はうるさいものであるが馬か牛の歸るとき跡を通れば人間には着かぬといふ事である、眼の前にクルクル廻る蚋には困る、其時は目を細くすると一時何處へか行く。西洋婦人のヴエールのやうなものを用ゐたらよからう。寫生中に飛んで來る虻は豫防の方法がない、螫された時にはハブ草をつけるとよい、ハブ草はエキスにして置くと携帯に便利で旅行中など入用なものである。其製法は、ハブ草の實を結ばぬうち葉と共に湯煮して、漉しく其汁を湯煎にすると濃液となる、蝮蛇に咬まれた時もこの液をつけるとよい、蝮蛇の時は切り取るのが一番よいが。前後を固く縛つて毒血を出さぬと後に大害がある。蝮蛇の居る處には必ず萩があるから、萩のある場處で注意すればよいとは土人の言である。昔しから紺がよいとの話であるが、飴りアテにはならぬ。
 僕は渓流を見ると其源泉を探りたくなる、啻に探りたい許りでなく必ず探る事になつてゐる、新潟へ往つて信濃川を見ると、其水黄濁決してよい感じが起らぬが、其源流たる千曲川は天下の美を極めてゐる。
 夏の旅行でも下着は毛織物がよい、輕い毛布が一つあれば山中に野宿する事も出來る、又山中深林の中などで寫生でもする時は、濕氣のため病氣を起す事があるから、出來るなら傍らで焚火をするとよい。(丸山晩霞氏談話の一節)
 紺は蝮蛇を妨ぐ事が出來るそうであるが、其紺は必ず新しく匂ひのあるものでなくてはならぬ。(編者)

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