ぬきがき
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水聲無思
『みづゑ』第二十五
明治40年6月1日
この忠告は世間殘らずに言ひたひ忠告である、それはドウいふ事であるかといふに、總て物は發達するに時日を要するものである、美術の發達もその通りで、種子を蒔き花が咲き實を結ぶといふ順序に運ばねばならぬ、夫故年數を経て練磨しなければイクラ急いでも好い結果は見えるものではない、而して其間も熱心でなければならぬ。
今日吾國の美術家は、美術に必要な約束を悉く極めてゐない、世間は一體に美術といふ事を知らない、唯ワイワイ言つてゐるだけで、美術の未だ發達せざる前の者を元として、何にでも應用して美術々々といふてゐるのである、ソレは美術が西洋に發達した種々の約束箇條の一部分に止まるものである、ソコデ茲に一應入念すべきは、美術と美術的思想とを混じてはならぬといふ事である、美術的觀念は人間に着いて生れたものである、其觀念か外物の醜美と人事の感情に刺激せられて外に發するのである、言語に發して文字に綴りたるものは文章である、物の形を借りて生じたるものが俗に云ふ美術である、其形體は眼を借りて見るものである、眼が潰れてはモー見る事が出來ぬが、こゝの區切りの附いた一部分を以て美術といふてゐるのである、其他の美術思想から成立つて現はれたものは、美術即ちボーザールとは云はれない、物の形を借りて、或は繪にするなり彫刻にするなり、ドンナ約束があるかと云ふに、マー第一の必要は其形を有の儘に間違なく寫すといふ事である、これは誰れも知つてゐる事ではあるが、サテ一つの品物、又は人の顔てあらうが、花であらうが、鳥であらうが、ソレを見た其儘に寫すは何でもない樣であるが、ソーはゆかぬ、從來の寫生は唯見たものに稍似たものが出來たといふに過ぎぬ、元來寫生は美術の一部分で、特に初歩の約束であるから、餘り寫生々々と大聲で申度はないが、ソレさへ日本では進歩してゐないのである、ソレデ物の形を寫すといふ事が、單に其形丈けに止まるかと云ふに、其次にモー一息ムヅカシイ約束があるソレは佛蘭西語のマチエール、即ち物質といふものを寫すのである、仝じ形を寫して見ても、其物の物質は木であるか石であるか、或は織物であるか皮肉であるかといふ事を寫す必要がある、仝じ木のうちでも、これは軟い木である堅い木である、杉である樫であるとか、白いものを描いても、コノ物質は雪であるか綿であるか、砂糖か鹽か、其區別を描き分けるといふ事でなければならぬ。
織物でも、今日西洋の寫生家が巧みに寫したものは、實に眞に迫つて、織物屋がこれを見て其品物の値打をいふ事が出來る、コレなれば一メートル何程でなければ織れぬなどいふ事の出來る位ひである、ソレが本當の寫生である。
扨右の二箇條を熟練したら、美術といふものが出來るかといふに、中々ソー旨くはゆかぬ、今申した二ヶ條の外に、位置を寫すといふ事がある、此約束のうちに遠近法も入つてゐる、遠近法即ちペルスベクチーブは、遠い近いの極端のみを云ふのではない、必ず手前を廣くして向ふを狹くするといふ許りの話ではない、一物一點のうちにも必ず遠近法がある、况して種々なるものを排列するに於ては各々の位置が最も大切である、爰に一個のコツプがある、このコツプを横から見ると、コツプと空氣との堺目が見える、ソレのみを示したのが繪の輪廓である、然るに實物では圓くなつて前へも後ろへも膨れて出張つてゐる、又其中が空になつてゐる、これを肉眼で見たやうに描くのが即ちペルスベクチーブの法則に從はなければならぬ、然るに品が變り位置が違ひ、色々の物を一目に供するには、數限りなき複雜な約束が必要になつて來る、其約束は其場處其位置に残らず入つて來る、地面の高低、又は物の厚さ深さ等ソレダケでもムヅカシイが、ソコで又美術といふ事を見せるといふ時には、向ふにある庭の樹木であるとか、岩であるとか、石であるとか、これは水、これは山、或は何々と人を感動したる美を悉く示さねばならぬ。
ソコデ、形を描くのと物質を寫すのと、物の位置遠近を誤まらざるのと研究が稍や積んでドーカコーカ出來るやうになつて、漸く美術の門に入つて、後にコレカラ稽古すると云ふ下拵へが出來かゝる位ひのものである。
其次にモー一層ムヅカシイ約束が出來て來る、ソレは何かといふに、斯う云ふ總ての品物は皆その色を持つてゐないものはない、コノ色が無かつたならば無論眼には觸れない、ソコで理學的の色論を別にし、假りに物品に色があるものと定め見ると、品物その物の色も光線の當り工合で一々違つて見える故、物品の色と光線との二つを研究する事が必要になって來る、假りにこの椅子の木の色は栗色をしてゐるが、窓の硝子は透明して白に屬してゐる、ソコでこの色を描かなければならないが、殊に物質を描くには色が必要である、ソレで光線の當り加減を兼ねて寫すとすると中々又ムヅカシクなつて來る。
昔しは日本や支那、支那許りでない、西洋でも赤いものは赤く描いてソレでよいものと思つてゐたのである、唯西洋では聊か歩を進め、遠近法によつて其影を寫すやうになつて、同じ青い色でも濃淡をつけて見るだけにしたのみてある、詰り日本の繪では、赤なら赤を平にナスくつて置くだけで、ソレから西洋の繪はそれへ蔭をつけて浮くやうにしてある。
更にムヅカシイ約束、ソレは物品その物自らが、色のある其上に持つて來る光線の作用である、其光線が眼に反射して來て一種の感じを起し、其光線の當り工合で同じ色のものも種々に見えて來るから、其違つた處を見せて描かねばならぬ、ソレがなければ完全なものでない、ソレを描いて初めて本當のものを見たやうな感動を起させる、ソレがなければ感じを傳へる事が出來ぬ、ソレがなけれは繪に活氣を持たす事が出來ぬ、故にソレが出來て初めて繪畫の實體といふものが完全するものであります。
今日迄生きてゐるドガ氏クロード・モネー氏等右等の約束を兼て自在に描き出したる大家である、其畫風を指してアンプレツシヨニスムといふ、これ等の大家の繪は實によく出來てゐるが、其門下人の畫は一向好くは出來てゐない、何故好く出來ぬかといふに、唯上皮を眞似てゐて研究してゐないからである、イクラ骨折てやつても土臺がないから詮方がない、其物質のみを現はして光線の作用を現はしてゐない、クロードモネー氏の繪に限り非凡である、近いて見てはテンデ何が何だか分らぬ、サレド或る光線の距離に從って見れば、實にドーモ今日のヤカマシイ約束が殘らず備はつてゐる、下手な人達の描いたのは繪具がメチヤメチャに固まつてゐる詐りである。
繪畫の外形のみでもその位ひのものであるから、兎に角形、色、位置のこの三ツの約束を段々研究して往かなければならぬが、美術の話は精しくすればする程盡きないものであるが、以上の研究が不充分では、一人前の技術を持つてゐるものと云へない。
美術家は中々他の學問を爲す人とは違つて、終世逆境に立つものである、夫故誤つて美術家に落ちたものは、豫て其覺悟が肝要である、丁度耶蘇宗未だ弘まらざる以前に困難したヱライ坊さんにでも成つた心持で、自分は一生この事に心を入れてゐても、生てゐるうちにはトテモ人には知られぬといふ位の覺悟でなくてはならぬ、ソシテ今云ふ、三つの約束を研究する一方でも一生を終はる覺悟でなくては、本當に日本の基礎となるべき美術は出來ぬであらうと思ふ。
其位ムヅカシイ困難のものであるのに、三年か五年の間に於てドーモ去年より一向進歩が見えないなど云ふは、世間の人位無理なものはない、ソレで諸君は氣を長くお持ちなさいと云ふ事を忠告する、又勉強する上に於ては、心中は一日も怠ることはなく熱心の上に熱心を加えて居る譯であるから、世間の人もモツト氣長に待つて貰はなければならぬ。
ソコデ現在に於て、西洋風の繪畫が世間に立派に現はれてゐるかドーであるかといふに、今云ふ第一の約束デツサンといふものが充分に出來てゐない、中々立派な名前の人、即ち大家と云はるゝ人の畫でも、稍やもするとデッサンの足りないのがあるのは誠に惜しい事である、又其後を繼いだものになると、デッサンが分らないやうな氣持がするソレデもつて繪を描いた日にはコレ位間違つた事はない、現に黒田君が巴里に往て教はつた時に、教師がドンナ工合に教へたかと云ふに、何時でもデッサン許りで責めてゐた、自分は繪の具を持つて見たいと思つたが、教師は悉く退のて、ソレよりもデツサンをやれ、アレよりもデツサンをやれといふた、其位デッサンに重きを置てゐるのであります、ソコへ持つて往て、デツサンは未だ出來ず、ソレカラ光線の作用は未だ分らぬといふやうでは仕方がない、コレは充分研究練磨すべきものである。
世間では兎角イロイロ云ふ人があるが、諸君はトントお構ひなしで、唯今申したる處の約束を缺くべからざるものとして守つて往けば、遅かれ早から出來て來る、又ソーしてゆくのが技術者の本分であらうと思ふ云々(下略)
以上は明治美術會紀念大會のせつ演説せられたものにして、三宅克己氏の『そのをりをり』第三(みづゑ二十四)にも言はれし如く、繪を學ぶ人々の服膺すべき金言である。