博覧會の水繪を觀る

石井柏亭イシイハクテイ(1882-1958) 作者一覧へ

柏亭生
『みづゑ』第二十六
明治40年7月3日

 今度の博覧會に出て居る水繪に就いて何か感じたことを書くと云ふ譯になつた。既に種々の評も出て居つて、私の言はうとする處は殆盡されて居る樣なものであるから、個々の作品に關して兎角の言を費す事を止め、只大體に就いての所感を述べたいと思ふのである。
 今度の博覽會には前々の其等に比べて水繪の出品が多い、それは水繪が盛になつたと云ふことを證して居るのかも知れぬ。併しながら私は今度の出陳によつて日本の水繪界の總てが代表されて居るものとは思はない。從つて之れによつて日本の水繪界全體を判ずることは出來ないと思ふのである。出陳の水繪中には習作と受取らる可きものもあるが、亦一個の創作として企てられたものも少くない樣である。それ故今此處に繪畫の諸要素に就いて少しく解剖的に考へて見ることも差支ないと思ふ。
 第一には畫題乃至畫の思想と云ふことである。多くの水繪に選ばれた畫題多くの水繪の表はさむとする處の思想はどの樣なものであるかを調べるのである。そこには山中に麥を燒く靜かなる夕がある。收穫の野に出でたる夕月がある。穩なる江流に影をひたす柳がある。夕日を受けた杉並木の道に沿ふて疲れて歸る人馬がある。杉木立の彼方に夕月を見るのもある。月夜の森の下に眠るが如き數軒の家もある。小暗き森の下道もある。
 img.0843_01.jpg/正會員小林重三筆之等の畫題には共通な處がある。それは皆靜穩なる自然に赴いたのである。夕暮と云ひ若しくは月と云ふ。反襯よりも調和の勝れる自然である。今度の出陳中に多數を占めたのは此種の畫題である。
 暗い竹林と日の當れる崖との對照とか、ヴヱネチヤの美くしき色とか、日光の明く照らすアルカザルの庭とか、滿州街路の混雜とか、雲の運動とかは、活動せる自然に興を得たものゝ例である。が此方には畫幅の大なるものが乏しい、大望あるものが少い。
 人物も動物も靜物も殆無いと曰つていゝ位である。もとより六かしい意味を籠めたものはある筈が無い。異常な感興によつて出來たと云ふ程のものもない。皆同じくつひ通りの自然を寫したと云ふ迄で、たゞ詩的趣味に重きを置いたものと畫的趣味を主としたものとの差違がある位のものである。
 次ぎに自然が如何に傳へられて居るかと云ふ問題である。そして此問題は畫風作法と云ふことと密接な關係を持て居やうと思ふ。忌憚なく曰へば博覽會の水繪には自然の忠實に傳へられて居るのが甚稀なのである。それには種々の原因が無ければならぬ。寫形の某礎が危いとか、此畫料の取扱ひに馴れぬとか云ふことも原因であらう。併しながら感情の強くないと云ふことが大なる原因ではないかと思はれる。自然に對する時の感情がもつと強く各の畫に印されて欲しいのである。大きな畫は大抵畫室の内で描かれる、小さなスケツチを基礎として畫かれる。それは差支ないけれども、筆を取る時の心的状態が餘程善いものでない時には好結果を收むることが出來ぬ。則ち小さなスケツチによって其曾て觀た自然を想起し感興に駆られて筆を運ばねばならぬ。曾て觀たる自然其物を想起すること充分ならずして、只小さなスケツチを擴大するに留まらば、其結果は情ないものとなる、氣の抜けたものとなる。
 畫は自ら二道に岐れる、一は總合的である、他は分解的である。それは何れに傾くも差支ないが、如何なる畫にも此二面が無ければならぬ。スケツチは總合的である、スタデーは分解的である。之れは皆承知して居ることである。然るに今の日本の畫家にはスタデーが乏しい。又感興に富んだ瞬時的のスケツチも出來ては居ない。彼等の多くは中途はんぱの仕事をして居るのである。此中途はんぱの寫生を以て畫室中に一つの創作を試みる其畫に感情の乏しくなるのも無理ならぬ次第である。
 夕日の映じたる杉を畫くに當つて、畫家の目的とする處は夕日の感じであるにしても、杉の分解をして置かねば、眞に夕日の映じた杉の感じは出難いのである。分解とは單に外形の眞を寫眞的に寫すの謂ひではない。あらゆる生物の内部生活に迄立入つて能く其意味を會得するの謂ひである。
 博覽會の水繪中の大作は皆不充分なるスタデーとスケツチとによつて成れるの結果自然を語ることが甚少いのである。畫をこしらへると云ふことは多くの場合旨く行かぬものである。牡丹だけ寫生して其後景を自分の考へで直したのが却つて故とらしくなつたのもある。樂器を一つつゞ寫生して之れに又百合か添へて統一を缺いたのもある。出づ可き方角でない處へ月を出して何處となく不自然の觀を招いたのもある。
 水繪の作法は種々に岐れて毫も差支ない。粗いのもよい細いのもよい。水氣の多いのもよく水氣の少いのもよいであらう。今度の出品中に悉くボデーカラー(具入りの色)を以てした一枚のスケツチを觀た。これは稍瞬時の印象を捉へ得て居る。其作法はよく其仕事に應へて居る。此一枚の如きは最變って居る方の例で、他は概ね大同小異の作法に從つて居る。一點一劃が確かに物の形状を成して居るのでなく、寧ろたゞ色を出すと云ふ目的のみである樣な用筆法が最多く行はれて居るのである。私は斯樣な用筆を否定するのではない。感じ心持に重きを置く畫にあつては、斯樣な用筆を便とするであらう。併しながら斯くの如き用筆法は畫か柔かにする代りやゝもすれば畫を單調ならしめたる、物質の表現を妨ける。私は一筆一筆が物の形情を細かに語つて居る樣な畫も欲しいのである。又粗く強い筆が一氣に引かれて、景象が大膽に捕へられて居る樣な畫も欲しいのである。
 

水彩畫研究所四月例會二等鈴木一治筆

 着彩に於ても重潤の法が多く用ひられて居る。一氣にして沫せられた快い色は殆見ることが山來ぬのである。油繪を參酌するはよいが、水繪の特質と云ふ可き透明質は保存されて欲しいのである。今度のにも透明質の保たれて居るのは數點ある樣に思ふ。水繪に細い光部を殘すことは面倒なものであるが、手際よく行けばよい。手際が惡るくてこだはりのあるよりは、具を入れたもので後から畫いた方が見よいのである。
 要するに博覽會の水繪に對する私の不服は、其處に自然が充分に寫されて居ないこと、其處に感情の欠けて居ること、其處にスタデーの乏しきこと等である。

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