寄書 予の水彩畫に着手せし動機及經過
長谷川晩雪
『みづゑ』第二十六
明治40年7月3日
予が水彩畫を初めたのは明治二十九年一月のことである、予は靜岡の小學校に奉職せし頃、同僚が水彩畫を描いてゐたのを見た、友人は花の寫生をしてゐた、其人から聞いて五十錢の水彩繪具と、十二錢の筆を購入して塗つたのは予の稽古の初めである、其頃師範學校に居る圖畫の先生に就て水彩畫を學びたいと願ふた、其れから、主に鉛筆畫と擦筆畫とで、寫生をやつて水彩は漸次實物でやつた、忘れもせぬ生れてから始めての寫生は支那枇杷であつた、此繪は大切なものとして今日も猶保存して居る、先生からも賞められた、此傑作は將來の紀念となり又奮勵の動機となつたかも知れぬ、爾來三ケ年間教鞭を取りつゝ恩誼ある其先生に就て教導を受けた、其頃同志の人は今美術學校に居る人と、大學工科に居る人と濱松中學に居る人と予とである、予は三十二年六月に此恩師や諸友や懷しい靜岡と別れて東京の學校に入學することになつた、翌々年四月に卒業して赴任したのは信州であつた、丁度そのころ水彩畫家の丸山晩霞先生が、歐米諸洲を歴遊されて、歸朝された時で、其年の十二月信州の御宅で、始めて先生にお目にかゝた、先生から色々珍しい物を見せて貰ひ、懇々と教訓を受けた、爾來自然の景色に親しみつゝ(すこし過言なれども)筆を下しつゝ今日に至つたのである、今日まで殆ど十年間、長い年月の間繪具をこねくり時に大家先生の御批評も受けたが、繪畫の技術の至難なる予の鈍オを以ては中々に進歩せぬ、併しながら予は水彩畫が性來好きであるから决して止めぬ、時々用事の爲めに妨げられても、時機を得れば筆を採る、昨年の夏は大下先生丸山先生が催された靑梅水彩講習會に於て指導を受けて愉快なる暑中休暇をしたが、今年は本縣にて手工科の講習を開く筈で残念ながら去年の樣な愉快な有益な消夏方法を採れぬ、實に遣憾に耐へぬのである(完)