版のなぐさみ 木口木版(承前)

山本鼎ヤマモトカナエ(1882-1946) 作者一覧へ

山本鼎
『みづゑ』第二十七
明治40年8月3日

 刀の持ち法は第二圖に示すが如くで、母指を定木の心持に構え、重に小指を働かして彫るでのある。示す所の第五圖は、最初畫用紙に畫いたもので、第三式の轉寫に依たものである。それでまづ、Aの刀を把つて第三圖の如く凸存すべき線のまわりか彫り、次にはYの鑿か以て、第四圖の如く不用の部分を深さ一分位に彫浚し去り、次にはFとDの刀を用ひて、不用の部分か全くとり去つてしまつたのである。而して第三圖Aの所はB若くはCの刀を用ひBの所はEの刀を用ひたのである。若し夫れ樣々に濃淡を現さむとならば、彫り浚う線の太細彫り殘す線の太細及び單線と從横彫刻との技術に由る。亦物質の表現の如きに至つては練熟の餘に自から覺得するの他、口や文字では説明し難い所である。唯、A、B、Cの如き尖を有する刀は、能く一本の刀を以て其運動しかたにより、種々の濃淡を彫り現す事が出來其繊はE、Dの如き刀の線に比して遙かに、變化に富むだ面白味のある者である。そうして極めて精致な者を彫刻するには、專門家は七十本近くの刀を使用するそうである。未だ其趣味を知らぬ人には變手古な事でもあらうが、愛好者にあつては繪畫の構成されて居る一本々々の線が、非常な注意と、深い趣味を以て鑒賞されるので、見る者に愉快な感覺を興さしむる所の一線一點が寄り集つて、一種の風貌を備へて居る『版畫』といふ者、特に、鐵針の尖から描き出された緊勁な線は僕の最も好愛する所である。風土人情の異る所、微々たる木版の線にまで、亦自から風格の異を放つて居るのは面白い、其佛蘭西のものを見るに、肉付のよい單線が、優麗典雅なうねりを持ており、獨逸のものは細い硬直な、ざらざらしたやうな線で、米國のは細くして軟く味のある。一種練絹のやうな冴えを持て居る。併し僕の見たのは大概復製的の企圖に成つた版畫であつて、自畫自刻、若くは創作的な考へで作られた版畫は、不幸にして未だ多く見る事を得ない。只僅かに、木口木版と思はれる創作的の版畫を『レプレセンタチーブ、アート、ヲブ、ヲバー、タイム』に於て見たのみである。

第三圖

 

第四圖

 

第五圖

 『ニコルソン』式木版ニコルソン氏の版畫は全く創作的のものであって、自畫自刻といふよりも、寧ろ『刀畫』と云ふ方が適切な位である。氏の版式は頗る簡單である、之を素人の慰みとせむに、木口木版よりはたしかに好適であろう、彫刻術も彼に比して、之は餘程修得し易く、器用な人には、直ちに版畫を試みる事が出來るのである。ニコルソン氏版畫の形式は、明暗が線の聚つて成つた濃淡ではなく、唯黒と、白との團であつて、構配上の装飾畫的線美が其極致であり、技術は其構圖の後を受けて、刀畫的彫浚の巧を振ふにありて、複製的分子は、自から其處に消滅せればならぬのである。製版上大體の順序は木口木版と變なく、只、彼は木口、之は板目に刻まれ、木材は櫻或は柘を用ふるのである(ニコルソン氏は如何なる木材及び器具を使用するやは知らず僕が版畫に依て推量して自から試みし所のもの)彫刻器は第一圖Yの如き丸鑿にして、大中小の三本にて大概の用に足るべし。其刀の持ち方は、第六圖の如し、但し廣き部分は彫浚し去るには大の鑿を握りもち、才槌にて打ちつゝ浚ふべし、要するに此簡單なる版式は、説述の要極めて少く、技工上の事は、諸君が一遍の經驗に得たる自覺に如かざるなり。須らく諸君に、繪葉書若くはヱツキス、リブリー(藏書版)等に之に試み見て、板目に於ける丸鑿の呼吸復雜なる自然を、粗大なる黒と白との團に簡約する事に就て、自得せらるべし。ニコルソン氏の版圖には、總て外廓に趣味のある自然が撰むである、人間や動物が重で、景色といふ程のものはない。其簡素な刀線は、面の智識を以て正確に鋭利に要所を劃して居る。尤も、細かに觀察すれば多少の危い線を認あないでもないが兎に角、あのやうな版畫は大した修練ののちでなければ企及し難いのである。叉色彩のものに就て見るに、砂目石版を用ひて、粗豪な墨版と實に巧妙な調和を遂げて居る。それ等の版畫趣味は、是非共諸君に注入したいと思ふ。(木版了り)
 

第六圖

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