我邦將來の繪畫

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

大下藤次郎
『みづゑ』第二十七 P.4-8
明治40年8月3日

 此度の博覽會を動機として世間の繪畫に對する聲を聞くと、同情の多くが西洋畫の方に注がれて居る事は最も注意すべき現象だと思ふ。其癖日本畫の出品には比較的に骨折つたものが多く、西洋畫には中村不折氏等二三の人の製作を除いては、大概舊作か然らずんは間に合はせである。それにも拘はらず世間の受けが洋畫の方に多く傾いて居ると云ふのは明かに洋畫の地位が高まつて來た事を證すのでこれが又我邦繪畫の將來にとりては看過すべからざる變遷の兆候と云はなければならぬ。
 由來日本畫が日本人に用ひられて居た特色と云ふべきは、多く其装飾的の點にあつたので佳宅の装飾とか、來客に對する室内の装飾とか殆ど全く装飾的の要求から日本畫が購はれて居た、いつやらの趣味に出て居た梶田氏の話にあつた如く、日本畫を注文するには、畫面の大きさを定めるとか、竪畫でなければいけないとか云ふ好みが多いと云ふ工合で、それを見ても如何に日本人、が繪畫を装飾として要求していたかが判る。一方に装飾品として繪畫を要求していると同時に、一方に於ては又富貴を衒ふ弊風が、日本人、殊に貴族富豪に多かつた。兎に角日本人には(無論例外はあるが)眞に美術の趣味を解し、眞に美術を尊重すると云ふ事は誠に少なかつたのである、或者は富貴を衒はんが爲に、或者は家室の装飾たらしめんが爲に多く繪畫を玩弄視して居つた。かの時々畫をかけ變へるとか、其爲め畫の式が定まつて額が少なく掛物が多かつたとか凡では根本の要求が間違つて居たから生じ來つた悪弊ではないか。換言すれは、日本人は眞に自己の美術趣味を滿足せしめんが爲に畫を好むのではなくて、多くは他に對する爲に、若しくは家や部屋の爲に繪を要求したのである所が近頃になつて大分新らしい心を以て畫を要求する人が出て來た、此精神的の要求に對しては、かの能樂や歌舞伎と同しく、舊來の日本畫は到底満足を與へることが出來なくなつた、單に意を寫すを以て滿足して居た日本畫は叉精神にも★陷の多いものとなつて來た、是に於てか何等か新らしいものを求めつゝある民衆の眼に、幼稚ながらも洋畫の方がより多くの好賞を得るやうになったのである、即ち日本人の美術趣味が益々個人的になつて行くと云ふ所に、西洋畫の特に入るべき道途が開かれたのではないか。
 それに今一つ西洋畫が今迄寫生にのみ限られて居るものと誤解されて居たのが、此頃になつて西洋の名畫がいろいろの版にて輸入せられ、又日本の西洋畫家の中にて、純粋な寫生的スタディから一歩進んだ製作を公にするやうにもなつたので、日本人の西洋畫に對する誤解が解け始めた事も、近時の趣味傾向の變化を來した大なる原因となつて居る。又装飾としても河村清雄氏などのやつて居られるやうな者を見るとあながち西洋畫も日本趣味に適しないものとは云へなくなつたので。凡て此等の諸點からして、西洋畫は漸時日本畫の地歩を蠶食しつゝある、そして優に今迄日本畫がやつて居たやうな事も西洋畫にてもなし得ると云ふ事も世間に知られて來たのである。
 次は日本の建築だが、これも西洋から歸つて見ると、日本人としては今迄の日本建築がいかにも住心地よく感ぜられて容易に變へたくないやうに思ふが、事實は日に日に變化して行く。それでも住は、衣食住の三つの中最も大きいものだけに、急に變らぬが、しかしこれとて永くは此まゝでは居るまい。現に公共の建物は殆んど仝く西洋化してまつたのを見てもわかる。さて家屋がかくの如く日に日に西洋化し行くとなると、昔から日本畫最大の要途であつた室内装飾と云ふ事も危くなるわけである。尤も日本畫でも光淋風や土佐派のものならば格別だが、其他のものに至ては眞に危い。
 と先づ以上の如く觀て來ると、我邦の將來は少なくとも一種特別な綜合的日本畫が出てゞも來ない限りは先づ西洋畫が用ひらると見てよかろう。島村氏の御話にも日本畫も西洋畫も物足らぬ西洋畫は若く前途あるが故日本畫は老いて衰へたるが故にと云ふやうな事を承つたが誠に其通りで、現在の日本畫が何とか大改良をしやうとすれば西洋畫になるの外なく、古きまゝでやつて行けば時代の趣味に應じなくなると云ふ風で、日本畫にとつては今が命の境目であらうと思ふ。
 さて、それとして西洋畫の現在を見ると先づ油繪と水彩畫との二つに分れて居るが、大概は油総で、水彩畫專門の人は僅に二三を以て數ふる位な有樣で、今の處水彩畫は殆ど洋畫界には勢力がないと云つてもよい。是は日本ばかりでなく西洋でも同じやうな有樣である。所が近頃多くの人の評を聞くと、油繪はまだ日本のものになつて居ない、何となく日本人には重つくろしすぎるが、水彩畫はいかにもよく日本人の趣味に合つてよいと云ふ呼聲が高いやうである無論それには勢力のない水彩畫家に向つての奨勵なり、御世辭なりが交つて居るのであらうが、ペンキ塗よりも杉の柾板を好むと云ぷやうな日本民族の趣味が存する限りは、其等の言の強ち御世辭ばかりでない事は吾々の固く信ずる所である。
 建築との關係から云つても、いかに洋風の建築が入つて來てもそれが日本趣味に化せられたものである事が疑ふべからざる以上は、室内装飾として油繪の全然調知する事の出來ないのは明かで、其處に日本趣味と西洋趣味とを調和するに容易な形式が要せらるゝに違ひない、此點に於ては、水彩畫こそ當に其任に當るべき形式であらうと思ふ。
 今一つ油繪と水彩畫とを比較して見れば、油繪は概して畫面が大きく、水彩畫は総じて大なる自然を小なる畫面にとり入れやうとつとめる油繪をピアノとすれば水彩畫はバイオリンに比すべきものであらう。油繪と水彩畫ピアノとバイオリン、何れが果してよく日本人の生活に適して、よく藝術的職務を完了し得るか、無論吾人は將來に於て水彩畫は油繪よりも、日本人の趣味に適し、日本の繪畫をして最も國民的の特色を發揮せしめ得るものと信ずる。
 今一つ吾々の考へたいのは吾人が外國へ行つていつも畫を見て感ずる事は、油繪では殆どあらゆる仕事を自由自在にやってあるので、日本人がそれに手をつけていかに努力するとてあれ以上の仕事をするのは到底不可能であると云ふ事である。しかし轉じて水彩畫を見るとこれは漸く百年程前に英國で芽を出した位なものだけに、どこにか發展の餘地があるように思はれるのである。それに水彩畫の初期の作品を見るとまるで日本畫に對するやうな氣持がする程でいかにも日本人の仕事として有望なもののやうに感じさせる。で思ふに、もし日本人が此形式を假り來つて、いやが上にも努力を重ねて行たならば、或は水彩畫は日本のものだと云ふやうになりはすまいか。まあこんな世界的な希望もあり、旁々水彩畫を以て日本將來の繪畫の中心としたいと云ふ信念が益々固くなるばかりである。
 たゞ今の所水彩畫に缺けて居るのは、人物を畫く事だが、もともと水彩畫は多く風景の方に適したものとなつて居るので、此點なども少なからず日本趣味と一致して居るように思ふ。何を云つてもまだ水彩畫が日本へ來て獨立して展覽會に出るやうになつてから、十年にもならぬのだから、何れは將來を期して見るべき大事業なのである。それでも事實として水彩畫が年一年畫會に増加して行く事や其趣味が非常な勢で世間殊に青年男女學生の問に傳播してある事や、又は油繪が眞を寫すに長けて居るにも拘らず、肖像畫を水彩畫で畫いてほしいと云ふ人の多くなりゆく事や、いろいろの事象を綜合して、吾人は益々意を強くするのである。で、更に將來の日本の繪畫を豫想して見ると、人物は油繪、風景は水彩畫、装飾は日本畫と云ふやうな一つの見界も立たぬではないが、結局は水彩畫に統一された日本獨特の畫風の獨占時代を豫想せざるを得ない。但し之は水彩畫家としての自分の信念である事を斷つて置きたい、尚最後に一言斷つて置かねばならぬのは、水彩畫と云ふと、吾々が今日畫いて居るやうなものばかりに思つて居る人が世間に多いやうだが、之れは大なる誤解で、吾々が今日水彩畫であると云つて公にして居るのは、まだホンの研究にすぎないので、眞に吾々の以て誇とすべき水彩畫はまだなかなか示し得ぬので、吾々はただそれを得んが爲めに苦悶しつゝあるのである。或は吾人の生涯中にそれを得らるゝか、若しくは幾年の後にそれを得るか、兎に角に吾々は一歩一歩其理想に向つて進みつゝあるのである。
 此項は、先頃早稻田文學社のために談話せられしものなれど、吾々が水彩畫に對する信念の那邊にあるかを『みづゑ』讀者にも知らせたく重ねてこゝに掲ぐる事としたり(編者)

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