水彩畫研究家に一寸一言

石川欽一郎イシカワキンイチロウ(1871-1945) 作者一覧へ

石川欽一郎
『みづゑ』第二十七
明治40年8月3日

 水彩畫を研究さるゝ人にも種々あらう、唯慰半分に一種の★樂として水彩繪具を弄ぶ人、此類の人は少々研究すると云ふ方には入るまい、又た畫が大數寄である爲め、面白くもあり熱心でもあると云ふ人、併し別に畫才があるとか、質が良いとか云ふのではない唯數寄と云ふのみの人、叉た數寄であるのみならず畫も上手にかけ、熱心で將來有望なる人、と云ふ風に違ひはあるが、通常畫が数寄で段々かいて居る内に上手にもなり自分にも分かつて來るので益々數寄にもなり熱心にもなり上達もして素人の仲間を離れて巳に黒人の方へ近付くと云ふようになり作品も漸く人の賞賛を得るの順序であるが、茲に僕が自分經驗から一寸言御免を蒙りたい事がある、一般に云へば地方に居る研究家よりも東京とか其他都會に居る研究家の方が見聞の便宜が有るは云ふまでも無い、其代り、天然の美景に親しく接し。人からて無く、天より直接の教授を受ける機會のあるは都會の人に少なくして地方の人に多い、それ故都會に居ても地方に居ても、差引研究上には五分々々と云ふような譯で、これは深く考ふる必要は無い、唯研究する上に於て、假令へば畫家と爲つて世に立っ考への人でも、又た世に立つ立たぬには關せず畫と云ふものを眞面目に研究して見ようと云ふ人は、巳に自分にこう云ふ考の起る以上は少なくも自身に、自分の技量に對する自信が有るものでなくばならぬ、唯無闇に、人が畫をかいて居るのを見ると如何にも樂で面白そうだから一つやつて見ようでは駄目である、已に自分に自信が有るからには相當に畫も好くかける人である、此域に達したから猶其研究を續けようとなる、それで此處に至れば、最早今迄のように不規律、間に合はせの研究法ではいけぬ、專門的にやらねばならぬ、併し專門と云つた處で、何んでもかでも皆打捨て、畫のみ習うと云ふ意味ではない、中學校に通學の餘暇で學科の練習を妨げぬ範圍で充分專門的に研究が出來る、實業に從事する人でも、奉職する人でも、高等の學問を修めつゝある人でも、皆其業務に差支へなき範圍に於て充分專門的に稽古が出來る、此類の人は世間に多く、僕の友人にも澤山あるのみならず、現に僕自身も此種の人間の一人で、世間の所謂專門家では無い素人である、素人であるが專門的に充分研究も出來、研究もしつゝあり又た自分で專門家の氣で居る、一向に差支へも起らない、要するに決心の如何である、併し畫のみかいて居る所謂專門家は、何時でも氣の向いた時直ちに筆が持てるが、他に業務のある人はそうはゆかぬと云ふかも知れ無い、一應尤ともであるが、之れは經驗上深く顧慮するに及ばない、こつちの暇のある時又た向ふが畫のかけない時もあろう、こんな事はどうでも好いとして、先づ彌々專門的に水彩畫を研究しようとなつたら一とまづ水彩畫を中止すると云ふと少々變手古であるが中々そうでない、初めに戻つて鉛筆畫を習う單に習うのでなく一生懸命充分に研究する、之れが實に骨髓奥儀で、これ丈云へば最早後は云はないでもよいのである、又た鉛筆畫のみに限らず木炭畫も大に結構である、要するに運筆と云つて腕がきいて來る、明暗の關係、物と物との釣合、形状、又た直線曲線等の性質に就て觀察の練習も出來てくる、勿論此研究は面白くなく、色もない唯白と黒の研究のみだ、又た鉛筆畫は中々六かしい、ペン畫等は殊に困難だ、併し此面白くない憂き年月を送るのは、難行苦行して極樂浮土に行かれる未來の望みがあるからである、此困難に耐へて叩き上げた腕でなくば、なまくらで駄目だ、先輩大家の作品を見て如何して、あんなに好く畫けるだろうかと思ふ、別に繪具が違うのではない、同じ紙に同じ筆でかく、それで大に懸隔のあるは皆此修行を通過して來たからである、世の中は何事にも皆修行だ、況んや美術の如き崇高なるものは、尋常一遍の修行でどんどん上達すれば、こんなうまい事はないが、そうは行かぬ、三年五年で卒業は出來ない、否一生涯の大事業である、そんな扼介な研究は閉口だ、頼まれもしないに餘計な苦勞をするは眞平だ畫の研究は止すべし止すべし、と逃げ出す人々が中々多い、それだから前云つた通り確固たる自信の無い人は、初めからこんな謀叛を起さぬ方がよい、畫を研究する丈の困難と忍耐とが有れば、大金持となつて立身出世疑ひなし、こう云ふ考への人は假令ひ研究中であつてもこちらからお止めなさいと勧告するそれなら何んで畫の研究を勸めるのかと云へば、之れは今茲で答へることでない、否な知る人ぞ知るだが、何れ機を得て美術と人生に就て陳べて見ようと思ふ。(完)

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