そのをりそのをり 信州より[下]

三宅克己ミヤケコッキ(1874-1954) 作者一覧へ

三宅克己
『みづゑ』第二十七 P.14
明治40年8月3日

 さて待ち望む婆樣なるもの、今日來るか明日來るかと待ちに待ちたる處、豈圖らん婆サンの娘が大病にて、是非其看病に行かねばならぬとて今は來らぬものと相成申候、小生が計畫は茲に一轉し他に何の良策なく、一時當惑仕候、御承知の如く、當地は皆養蠶或は機織等の仕事有之候爲め、病人か『ナラズモノ』のほかは雇ひに應ずるもの更に無之、不得止自身で自身の世話をなすに若かずと愈々自炊と決し申候。小諸町にては東京より來た繪の先生と言ふ、其先生なるもの大に決する處ありて、第一に来屋に行きて米を誂へ、醤油、油屋、薪屋、炭屋、砂糖、鹽までもともともに買來り、其日よりは四疊敷の臺所自由勝手或時はビーフ、ステツキも出來、オムレツも出來、又或時はつくだ煮で茶漬をかき込む時もあり、福神漬に舌をうち鳴す時もあり、其愉快さ其美味なる、到底他人の想像の及ぶべきものならずと存候。今は一二人の友人が來ても決して食事に差支ふるが如きこと必す無し、なまじのお嬢樣の臺所仕事より、小生の方遙かに勝るを信じ候、君、必ず八月に來り玉ひて、先づ小生が家に宿泊なし給はん事を、今は買たての新しき蚊帳もあり、夜具もあり、又昨日拵らへたての枕もあり、況んや小生得意の料理あるにあらずや。小生が目下の生活總て如右、若君來るなら糠味噌の茄子の新漬をも作るべく候、味噌汁をも拵へ可申、必ず御不自由は致させまじく候、今はそば屋へ通ひしよりも時間は省け、美味なるものも食ふ事を得、尤も好都合に御座候、御安心下されたく、當地にては、牛肉は日曜はらでは屠らざれば毎週木曜日以後は食ふ事不能候、日曜の朝早く、未だ空氣の冷たき時、往來ベルを鳴らしつゝ歩く小僧あり、是即ち牛肉の注文を取りあるく者にて、未だ靜かなる町のうち、このベルの音が響き亘る時は、實不可言一種の感に撲たれ候、蓋しベルの響は牛の屠られるを報ずるが故に候。
 小生目下の有樣すべて右の如し、或時は先生と呼ばれて澄す時も有之、或時はおサン殿をも權助をも一人にて八人藝に御座候、夕食後は大低散歩ながら食物の買入に參り候、小諸の町では、大低小生の何者たるやは早や隅々迄も知れ亘り居候樣見受申候、隨分氣取り屋連中にはチト出來兼候事と存候へ共、決して體面に關する事なく寧ろ面白く候、小生の如き小諸の人間には用事なく、畢覚風景のみに親しき交際を求むるものなれば、タトへ小諸の人士に何と思はれ候とて決して損失は少しも無之候、昨夜も不斗佛の大畫家ジヨン、フランソ、ミレーの傳を讀み申候處、氏が幾多の困難に打勝ち遂に芳名を世界に輝し申候事なるが、小生もタトヘミレーの成功なくとも、幾多の困難に打勝つだけは必ず敗けぬ決心に御座候、殊に『已れの額に汗して己のパンを喰ふべし』とはミレーの金科玉條とせし處と申すが、實に吾人を奮勵せしむる天の聲と存候「野に出てゝ天然の美景を寫し、家に歸りて獨り静かに己れの炊ぎし美飯を食す、これ昨今小生の境遇、困難の内又自から喜悦あり、苦痛の裡又自ら希望あり、御推察下され度候。
 本日早朝藤村氏來られ候、小生未だめしをも炊かず候砌、ダシヌケにて實は閉口致候へ共、他の人にては無之、繪など見せ、漸やく火をつくり茶など入れ、種々様々の話出で申候、話いよいよ出でゝ愈佳境に入り申候處、藤村氏曰く、君未だ食事前なれば私の家に來り朝飯を食し玉はずやと、小生直ちに其厚意に從ひ、少し冷つく朝風に吹かれつゝ、瓢箪池なる氏が庵に參り候、小生が宿より僅かに二町に不足、時間にして僅に五六分間にて達す、
 道にもやはり話は絶えず、家に入りても未だ盡きず、時に氏は一冊の手帖を出され申さるゝやう、私は毎夕雲の研究を致し居候とて、形の變化色の變化、一々細詳に記載しあるものを示され申候、其注意の周到なる一驚を喫し候、小生が知れる畫家のうち、未だ如此研究に熱心なる人一人も無之候、天色の研究に熱心なる人、却て是に畫家の内に見ずして文人の内に見るは寧ろ嘆息いたし候、世の中には陰然如此人があればこそ、眞面目の畫家も幾分の希望あるを認め候、兎に角に、下手な畫家より少しく氣慨ある文學者などの方遙に好き友に御座候、一は文字を以て天然を歌ひ、一は色彩を以て天然を畫く、其手段に於ては多少相違こそあれ其根原は即ち一に御座候。まだまだ有之候以下次回に申上べく候。
 此書面は過日認め候七尺の代りとして差上候、惣丈け一丈に御座候。
 三十二年七月信州小諸にて
 

三條千代子筆

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