叢話 畫家の上衣

K.S.K
『みづゑ』第二十七 P.16
明治40年8月3日

 見え坊でそして貧乏な美術書生のA君は、三度の食事は内々で澤庵や味噌で濟ましても衣類持物などは他人に少しも劣らぬやうにと常々心懸けてゐた。ある日、友人のB君C君其他二三人連れで少し遠方へ戸外寫生にと出掛ける事になつた。初夏の快よく晴れた日で、歩行くと中々暑い、あまり疲れたからとて、未だ目的地へは往かないが、途中の樹蔭に一同休息をして、皆々上衣を脱ぎ捨て、シヤツ一枚になつて、風を入れてアヽ佳い心持だと口々に言つてゐる、そしてほとりの小川で顔を洗ふもあり、手拭をぬらして來て身體を拭いてゐるのもある。然るに、A君は顔から玉の汗をかきながら、一向上衣をとらうともしない、「君暑いだろうにそんなものは早く脱いで凉んだらよいではないか」と、友人B君が勸めたが、A君は益々前をかき合せて、「僕かソノ、ナンダ、少し風邪の氣味で背中が寒いから上衣はとらないのだ」といふ、ドーモ其様子が變であるので、「オカシイぞ何か理由があるのだろう」と、A君のソワソワしてる擧動を怪しみ、皆々寄つて集つて、イヤがるA君を引捕へ、無理に其上衣を脱かして見たら、平常のお洒落の事ゆへ、上衣の裏は儒子か甲斐絹か、さぞかし結構なものであらうと思ひのほか、ソレはA君が、いつぞや描き損じた瀑布の圖のあるカンヴァスであつたので、一同呆れて今更氣の毒に思つてゐると、C君は透さす、「背中が寒くつてならぬと断つたも無理ばない、年中瀑布を背負つてゐるのだもの」といつたとさ。
 

河合新蔵筆

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