寄書 水彩畫に志した動機

MO
『みづゑ』第二十七 P.17
明治40年8月3日

 幾年前であつたか自分が刀根河畔に居つた時、花見に上京して西洋畫の展覽會を見物した、それが西洋畫の趣味を深からしめた基で當時は水彩畫といふ事を知らずに油繪を水繪具で畫いた繪と思つて歸てから卅五錢の繪具箱をいぢり初めて、利根の鐵橋や菜花の上行く白帆、布施辮天の遠望などを畫いたのが今思へば水繪の描き初めであつた、自分は展覽會で見た吉田博氏の「千山萬水」といふ千曲川の上流かを畫いた油繪不折氏の「淡烟」審也氏の「海岸」芳柳氏の」楠公」誰なりしかの「宮杉」「蔓橋」などの水彩畫を回想しつゝスケツチをして居た、其内に磯濱へ移つた、時に丁度新聲社から水彩畫の栞が出版されたので早速買ひ求めて讀んだ。
 コバルト、カーマイン、レモンエルロー等の色名やブラツシユの形、筆洗等のあることを知つたのはこの時である、直に見取枠や畫嚢を拵へて挿繪「早稻田の秋」の筆使ひに眞似てスケツチを初めた、一度冷へかゝつた畫熱が再發した、そして今日まで引續いて居る、只『水繪』の發刊と春鳥會々則を知つた時は少しく興奮した。僕の畫熱は慢性である冷める事はないが進歩の痕が見え無い爲めに其度が高まりもしない、併し今回入會して諸先生の懇切なる指導を受けたら或は少々の發展を認める事が出來るたらうと樂みにして待つて居る。
 水彩畫を學びし爲めの利益。
 先づ第一に異郷の山水の有樣をスケツチして歸宅の後時々折々眺めてはスケツチ當時の光景を忍ぶ愉快が第一である。昨夏満洲へ旅行した時の奉天城外の喇叭塔、老虎灘の廟宇、朝鮮沿岸の島嶼の遠望等はブツクを開けば忽ち其時を回想して愉快である比叡山上より琵琶湖のスケツチ、高野の驛の夕月夜に高野の靈山を望んだスケツチ等に於ても同樣である。
 第二に見た事を畫に表さずとも畫心があると建築や山川の配置や、を記憶する力が強くなると思ふ。
 第三自分の職務の教授にあたつての興味多くを加へて兒童に談すことが出來る。
 第四自分は今往復三里弱の道程を通勤して居るが水彩畫を初めてからは毎日毎日路の兩方の麥畑や松林や、夕陽や朝靄やが異なる自然の美を示するに見とれて、明日の變化を豫想したり彼の松林の前の菜花が咲いたら如何ならんなど畫題を撰び撰び歩むから多くは歩行の苦みを知らないで居る。友人などは六年間も能く根強く通勤するといふが御當人の僕は前述べた通りである。

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