寄書 畫に對する私見
K、N、生
『みづゑ』第二十七 P.17-18
明治40年8月3日
繪畫に東西洋の區別あれども、其原則は二ならず、畫家が自然美若しくは人工美に對する審美的情緒を活躍表現して觀者の美惑に訴ふ者ならば、其手段と方法との上に於て或は寫實的なるか抽象的なるかの相違のみ、然しながら東洋畫に於ては骨法用筆に全幅の精神を傾到し單に輪廓を規定するに過ぎざる線條に多大の價値を偶し線條其物をして神秘を發揮するの媒となし縁となし輕觸揮省略したる寸分の線條に欝勃たる元氣を映出し風尚と餘韻とを第一義とし物象其物は末技として觀者の思索に放任し覇氣横溢して其要領を穿たざるに到ては憾なきを得ず個人の嗜味のために描ける繪畫としても如此は頗る藝術に對して不親切なりと云はさる可からす元來吾人は知識の深淺經驗の多少等に由り感情に相蓮ある者なれば畫題を確實に捉へ物象を精確に寫すにあらされば彼の虎を描いて狗に類するの誹りを不免往々文人畫に對する滑稽の沙汰は聞く處なり是れ或は淺薄なる少壮畫家の一弊ならんも概して東洋畫に於ては科學的確實性を無視し天才に放縦して不知不識不自然に蹈り後は漸く糟粕に慣れて其妙昧を等閑にして遂に一彩を傳し得ざるを見れば頗る落漠の感なしとせず之に反して西洋畫の科學的確實を具備し頗る堅實とを併せ有するものと比較せば均しく繪畫にして彼と是とは琴を操て齊問に立つが如し元來繪畫は情の投影なれば慢りに主觀的空想を恣にすべきに非ず客觀的確實性の印象なれば情意の相對的経驗と不離の關係を有するものとして社會の文化と吾人の性情とを纒綿として發展する者なれば宗教的眞理の外廓を周匝せんものと云ふも敢て過言にあらざろ可きか古來より宗教と繪畫相依り相扶けて進歩發達したるを見れば蓋し思ひ半に過きざるなり所謂繪畫は小乗教により何人にも入り易き發心門にして劣機下根の凡夫も一度機縁の純熟に會しては則ち光耀海中の人となるにあらずや余甞て聞く繪畫を學ぷの最大要件は複雜豊富なる學識や経驗にあらずして赤子天眞の心情にありと云ふ然るが故に名畫には畫家の高尚なる精神渾然として具象的意義を現はし無限の興味を與ふるものなり誰か斯の手に描かれたる落日の壮觀を見て崇高の心昂らざる寒林の静寂に歸依の思ひ湧かざる畫家の感得せる感情は觀者をして又宇宙の實相に觸れしめたるが如き感興を催さしむ繪畫の權威は譬へ絶體を攫むの器にあらずとするも吾人これを光耀の天に入らしむるの道案内者ならんか且つ夫れ美感なるものは快不快の範疇に依て事物の美醜を判斷し光明の方面に人生を誘導するものなれば濁浪迷霧の裡に人生の價値の埋没せらるゝを憂ひ道念の進境を促し美は無上の精進を希ふよりして人生の高調の詩趣と道念とを合せ攝めて最深實在に旋泳せしむるものと云ふべきか。