寄書 夏のスケツチ
島田晩韻
『みづゑ』第二十七 P.18
明治40年8月3日
青梅町の向ふの二股尾は、海禅寺の前に一寸した面白ろい大きな柿の樹と家根がある、駕を抂げて畑道を下りて行つた、遠景は多摩川を隔てゝ吉野村の丘陵遠く西より東に走つてゐる、中景がその柿の樹に家根、前景が豆と玉黍の畑になつてゐる、全體が青味がゝつた調子で、何だがいやに六つかしそうで、初めから失敗を豫期してかゝつた。
床几を据える、見取枠で見る、鉛筆で輪廓を取る、さて、着色と行つたら案の如く、遠景の深緑な山のどんよりした色が出ぬ。あれでもない、これでもないと、へたぬりに塗り付ける、しかも盛夏の午後三時頃の日脚はぢりぢり遠慮なく、照り付ける、今は油汗三斗の淺間しき姿となつて遺つて居る。
どうやら喧しいので、氣が付いて、ふりかへつて見ると二三人の子守が早や後ろにのぞき込んで居る、とするうち迎ひにでも行つたものかおかみさんもくれば、與作爺もくる娘もくれば腕白小僧もくると云つた樣な、今は後ろに左右に三面より包圍されて風はこず、妙な人いきれが鼻をつく、亦如何ともなし難し。
『マァー、みいちやんの家だね』と、さゝやくあれば、『これ畑の中に這入ちやいけない』と子守を叱る銅磨聲に、びつくりする、迚も完成の見込みはないので、要所だけ仕上げて、道具を疊み、もと來し道を後戻りせむとすれば、吾等を何と思つてか。『ご苦勞様でした』と云ふおかみさんありけり。