寄書 探勝だより

山本野琴
『みづゑ』第二十七 P.20
明治40年8月3日

 僕等は午前十一時有名なる甲府驛へ着いた直ぐその足で目的地點たる御嶽山へと行軍(?)を初めた。登山地點たる和田峠を越すとかの有名なる日本三急流の一たる富士川へ、一直線に射るが如く流下する荒川の沿岸へ出たのである。この荒川こそ御嶽山沿道に於ける絶大の配景となるのである。見よ見よ、全山悉く花崗石で包まれた荒川の急流には、その眞自な大岩石が人目を眩ずる許りの白光を放つて、横はり、その間を直下する丈餘の奔潭は、岩を噛んで飛沫と化するので、時ならぬ白雪時ならぬ落花を現じ、雲烟飛沫、斷崖模湖として、遠く聞こえるのが、その名もきよさ仙娥瀧で、近く聳ゆるのが、昇仙峽隨一とも云ふべき覺圓峯である。僕等はもう、仙化した氣で、得意のロ先で、『あゝ新耶馬溪!』。と三呼した。こんな絶大の偉觀がドコにあらうか、コンな幽邃な美觀がドコにあらうかと、僕はポーツとして迷想郷を辿りながら、スケツチ一つ出來ず、沿岸の流を溯ること、五里許りで、幽静無限な御嶽の金櫻神社に着して參拝後大黒屋と云ふ、旅館に投宿した。
 この夜、僕等は思ひ思ひに、途中紀念スケツチを繪ハガキにして、自慢氣に、故郷の友へ送つてやつた。

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