俳畫に付て

比奈地畔川ヒナチハンセン 作者一覧へ

畔川生
『みづゑ』第二十八
明治40年9月3日

△一口に云へば俳趣味の繪、即ちこれが俳畫である。つまり俳句と繪畫とを通じて一貫した味のあるものがある、即趣致風韻の相渉るものである、之を俳趣味の繪といひ又俳畫といふことか出來やう。
△丁度俳句が、形體の小なると其意匠が當意即妙の事抦を詠ずるとが、無論俳句にも似通つてゐる。然し、形式の容易なると。一般に流布せらるゝことの大なることに於て、平民文學と迄稱ある俳句が、比較的完全な作者として、古住今來尋ね來ると實に兩の手を折る程もない、俳畫のこと亦然り、焉ぞ他の文學他の繪畫と何の軒輊あらん。十七字の俳句も千古に傳ふ堂々たる文學の一種であり、一點一劃の俳畫も亦千載不滅の繪畫の妙品である、形式の大小を以て價値を論じやうとする樣な愚者があつたら大變である。
△要するに俳畫の最も貴ぶべき處は洒脱輕妙なる雄であつて、出來得べきだけ略されたる線と色とを以て作られ、然も其内に溢るゝばかりの餘韻(所謂俳趣味)を含ましたいのである、更らに高雅風逸の氣品を備へ得れば此上もない。
△冗長と繁雜とは最も厭ふ處である、けれども復雜の感想と深長の聯想とを含ましめ得ればそれも妙である。俳畫は経淡瀟洒なるものであるけれども、單純無味なるものではない。俳趣味といふ語に付てもさうである、輕淡と解薄と意義を取違へてはならぬ、毫厘も差あれば天地遙かに隔たるのである。
△俳句に天然的のものと人事的のものとある、又其を詠ずの場合に作者の心的感想の状を詠じたと、心象に寫し來りたる眼前の風致事物を其儘に詠したると。つまり主觀客觀の二樣がある俳畫を作る場合にも此等と同一の手段で作ることが出來る、然し單に俳句に則とつて俳畫を作らねばならぬわけは勿論ない、其意匠を區分すると、豪宕なるもの、濃艷なるもの、莊重なるもの、奇警なるもの、眞面目なるもの、滑稽なるもの等、千樣万態である。無論これは畫俳兩樣に渉るべきことである。
△一般藝術なるものは絶對に理窟を排斥する。理意を加へて本來の情趣を誤るものが多々ある、素より按へねばならぬことである。
△鳥羽繪といふものがある、これは俳畫とはいへぬ、北齋が漫畫は振つたものである、けれども純然たる俳畫とは云い難い、けれどもこれ等はこれ等として面白いものであらう、俳畫の目的は他にある、けれども俳句に似て川柳がある樣に、俳畫も一歩を誤まると狂畫となる、此區別が肝心だ。
△俳畫にも線や色の美を以て優るものと、意匠を以て優るものとがあるは、俳句は言語音調を以て勝れると、裝匠結構を以て勝れるとがあると同一である。そして自然的の筆意を用ひやうと、圖樣的の筆意を用ひやうと勝手である。
△元録時代の句素より然りであるが、殊に天明時代の句をとつて誦ずると、絢爛皆檜である、俳畫である。例を掲け來ると際限がない。
△所謂名人の仕事には駄目がない。一點一劃を捕へ來つて無限の妙味を表はしてゐる、その簡單疎朴なる線や色やが、然も最も緊要に適切にして、毫も動かす可らさるものであるからである、その一點一劃の高雅嫻麗なるものが、到底凡手の百の色も千の線も企て及ばないのが、不可言の妙趣として難有のである。俳畫の精神はこれに極まる。
△元禄以前にも俳畫樣のものをかく人はあつたらう、元禄時代は盛んに出た、許六は畫に於て芭蕉の師とさへ仰かれた、外に立圃や一蝶や深省もさうである、然し天明に至つて蕪村といふ大豪傑が出た、彼は俳句に於て神髄に透入したのみ力ならず、俳畫に於ても非凡の技術を示した、畫俳兩道に於て中興の一偉人である。蕪村の配下及後世に至つて、其流を汲む處の俳人畫人は澤山出た。
△下つて文化文政天保時代となると、俳句の傾向は益墮落し盡す、これは自然より將來より客觀の美に、殊更に作者の理意を操つて、自然本來の情趣を損したる愚技を弄したるからである。俳人は如此墮落し盡せしが、俳人以外の畫人に堂々たる俳畫(のみではないが)を畫いた人がある、源綺、南岳、文鳳、大雅堂、素絢、芦雪、椿山、華山等數ふるに遑がない。光悦、光淋、抱一等の作のあるものも、俳趣汪溢たりである。近く是眞などは俳畫に初まりて俳畫に終つてゐる。
△俳書を作るに、畫としての素養がいる。けれども俳趣味の頭がないと俳畫はかけぬ、此手段として俳句を學ぶもよからう、畫俳兩樣を一致融合せしめて渾然たるものを作りたい。近昨畫家の間に私かに俳句を研究するものゝあるが如きは欣ぷべきことである。
△兎に角一俳趣味のない人の繪は、みるからに鄙野乾燥である、冗長煩雜である、無味晦澁である。
△近來新聞雜誌にコマ繪が流行する、繪はがきが下火になつたといふても流行してゐる、隨て和洋疎密の多種類が作られてゐるけれども、見るからにひねくれたのや媚た樣なのや、さもなくばせゝこましい俗な鄙野なのが多い。其他書籍新聞雜誌。殊に文藝美術に關したのには、挿圖にカツトに、釘裝に、或る清新な俳趣を含まれたのがないではないが、明治の俳畫が此等のものに盡たとすると實に情けないのである。因みに云ふ、獨逸製の繪はがきが非常に輸入されてゐるが、これは到底永く日本人の嗜好に適するものではない。(無論繪はがきに付てのみではないが)
△元禄には元禄で趣の深い俳畫が出來てる、天明元よりである、下つて時代時代に多少の作品を出してゐる、その初めのものには墨繪のが多い、後に色彩を交へたのもある、明治には、特に洋繪なるものが舶來して更らに一新面を拓いた、油繪水彩繪を以て必ず俳畫を作り得ると自分は信じてゐる。
△河村清雄君は油繪を用ひて頗る俳趣味の繪を多くかゝれてゐる。淺井忠氏も此道かけて輕妙の手腕を有されてゐる。中村不折君、下村爲山君も亦時に俳畫を巧みに畫く、其他の洋畫家日本畫家にも三四の俳畫をかく人はあらう。
△然しこれが明治の俳畫であると、後世に胎す程の作品は未だ出來て居らぬ。如何なる藝術でも時代によつて多少のそれが出來てゐる、明治は未だ一俳畫に於ても一匠をだも出し得ぬか、日本畫と云へば直ちに古畫を數へる、洋畫といへば未だしといふ、衰頽時代か過渡時代か何れなるやを知らぬ。兎に角日本畫でも洋畫でも、大作傑作を澤山作るがよいが、些細な一俳畫も亦堂々たる一の繪畫であつてみれば、これが明治の俳畫書であるといふ人を出してみたい、水彩畫でもやらうとする人は殊更である、又日本人の特質なるものが仰も頗る俳趣味をもつてゐるといふからてもある。

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