第二回水彩畫講習會


『みづゑ』第二十八
明治40年9月3日

 ▼大阪天王寺桃山中學校に於て開いた本會第二回水彩畫の講習會は八月二日午前八時開會、その當日より授業をなし、同月十五日に終り、十六日には成績品の大批評をなし、午後茶話會を催ふして無事散會した。
 ▼入會の申込者六十六名の内、四名は不得止事情や病氣のため一回も出席せず、他に二名程は一家の都合にて遠方より通學するため缺席勝であつたが、他は殆と一日の休みもなく出席された。
 ▼開會の日取りを誤りて遲著した人、又は公務上休暇を得ずして僅かに數日間出席した人もある。一人は、韓國馬山浦より遙々來られし人、他は九州門司より來られし人、何れも開會間際であつたゝめ充分研究し得ざりしは遺憾てある。
 ▼集まりし會員は、遠き韓國を別として、熊本、福岡、山口、廣島、鳥取、島根、岡山、愛媛、兵庫、和歌山、大阪、奈良、京都、滋賀、岐阜、愛知、三重、靜岡、神奈川、東京等三府十七縣である。
 ▼出席者の氏名は左の通りである。
 濱田久次郎、鎌田國男、十龜廣大郎、三浦玄良、前並保藏、西村三作、須々木壽太郎、堀尾秀司、森一男、鈴木雪哉、乙部孝、清水重大郎、瀧本得之、杉野原正次、淺野快泉、星合了讓、田中半兵衞、薄政太、野木定次郎、瀬野覺藏、岡本萬吉、近藤房太郎、西松亮三、上田小三郎、山本得兵衝、吉田庄治、寺中美一、西尾英吉、保田虎太郎、大森商二、森島直造、今井壽雄。松井四郎。竹馬利一郎、竹下一郎、稻垣重雄、岡田伊三次郎、阿保談二、西勝一、島村安三郎、菅孝三郎、日野松大郎、金田豐、沖鹽新三郎、益永次一郎、吉崎勝、富田圭五郎、輕部雅次郎、澤村政太郎、淡河義一、神谷久八、小林重三、井上鼎、桑田のぶ子、小野榮一、橋本龜次郎、高橋文三、金森徳次郎、錦織信、茨田定榮子、石川こま子、奈良あい子以上
 ▼會員の身分は學生、中、小學教員、實業家、官公吏等にして、其年齢は小學校生徒の十四五歳より、中、小學教員の五十歳近く迄の人もあるが、概して二十歳以上三十歳位の人が多數であった。殊に吾々の感を深からしめたのは、中等教育に從事してゐらるゝ地方の先生達が、何れも相應の技倆を持つて居らるゝにも拘はらず、進んで遠路を大阪迄講習を受けに來られた其勇氣である。常には教檀に起ちて、眼鏡を光らせ口髭を捻りて、生徒に對する其方々が、若き人達と机を並べて熱心に研究しておらるゝ其有樣は、洵に神聖なもので、かくてこそ吾々が、此炎暑の候百里の道を遠しとせずして、こゝに講習を開いた甲斐があると思つた。
 ▼講習會は毎日午前七時半に開いた、午前は靜物寫生で十一時半迄四時間、出來上らぬ人は午後迄居殘つて畫いたのもあり、又同一モデルを二日續けて研究した人もあつた。
 ▼開期中に使用したモデルは左の數十種である。
 菊、百合、槿花、喬竹桃、牽牛花、日向葵、桔梗、西爪、南瓜、胡瓜、白瓜、茄子、甘藷、林檎、桃、李、玉葱、丹波酸漿、魚類二種、鰒、赤貝、扇子、團扇、書物三種、煙草盆、マツチ、ベル、プリキ罐、湯沸し、水さし、三脚、土瓶三種、茶椀、コツプ、夏帽子二種、ミツト及ボール、小箱、洋食器、竹籠等
 ▼十一時半から、繪畫講話及び透視畫法の講義が、一時間あまり宛隔日にあつた、前者は大下講師、後者は大橋講師であつた、教室は風通しがよく非常に凉しかつた。
 ▼十ニ時半から三時迄は休息時間で、遠方から來た人は學校の扣室で辮當を開く、近所の人は宿へ歸る、大阪の夏、その土用中の炎天を十町あまり西照館迄歸るのは苦痛ではあるが、流汗一斗、宿へ歸つてそれを拭ひ去つた時は極めて爽快を感ずるのが常であつた。
 ▼午後三時から六時過迄は戸外寫生で、近くもあるし、日蔭も多く、初學者に適する建築物も澤山あるため、多くは天王寺境内へ往つた。天王寺境内廣しと雖も、六十の三脚を立つるとあまり餘地のないやうな感じがした。かくして天王寺に於けるあらゆる建物、石燈籠、樹木の類は殆と描き盡された。
 ▼曇天の日には、桃山中學の裏の廣場で寫生をした、遠く河内の連山を見、万傾の靑田、參槎たる樹木、生ひ茂れる夏草の緑、材料は豐富で、天王寺とはまた異なつた趣がある。
 ▼桃山中學佼は外國人の所有である爲めに、日曜日に使用することは喜ばない、それ故第一の日曜日には、午前戸外寫生午後より茶話會を開き、參考品を見せた。第二日曜には住吉公園へ往つて終日寫生をした。住吉は樹木多く、河も海もあつて、多方面な寫生が出來た。此日會員一部の集合寫眞を撮つた。
 ▼今度の講習は、昨年の例に鑑みて、順序を踏んで進みゆく方針をとつて、第二の講話の時、繪畫を學ぶ順序として墨繪の必要を説き、小部分研究の利益を勸めた、夫がため、天晴乃公の手腕を見よといぬばかりに得意であつたらしい人違も大に悟る處があつてか、急に鉛筆の初歩より初める人が澤山出來て、鉛筆畫より一色畫、水彩畫といふやうに、順序をたてゝ研究した人が多かつた、そして夫等の人は皆進歩の度が著しかつた、且形の正確、濃淡の調子、色彩の調和、繪の感じ等の上について、稍嚴に過る程正則にやつた爲め、多年筆を執ながら、今更書物一册滿足に形の出來ぬに呆れて、心から研究心を起した人も少なくもなかつた。
 ▼開期中雨の日が二度あつた、初めの日の午後は西照館で二時間講話をした、後の雨の日には學校で雨景の寫生をさせた。
 ▼參考品は二回見せた、第一日は重に印刷物で、近年ロンドンで出版になつた水彩畫の原色、石版等數百枚、及び春鳥會競技の繪葉書、其他數十種で、その重なるものには一々講師の解説があつた。第二日は兩講師の研究作品たる寫生畫百枚以上他に外國人の作品五六點を陳列して、これにも、寫生當時の考へ等につき一枚々々を説明があつた。
 ▼最後の十六日の午前は、七時半から批評會を開いた、會員の作品千餘點、何れも汗水たらして三時間以上もかゝつて製作したるものばかりて、其繪の巧拙は兎も角、其人にとつては貴重の作品である。その中から五百點程を抜いて、西照舘の客室の壁へ陳列して、兩講師交る交る批評を下し其長所短所をあげ將來執るべさ方針について注意を與へた、それが濟んだのは午後の一時、二時から茶話會を開いた、飲むものは番茶、喰ふものは蒸菓子に過ぎぬけれど、何れも十年の知己の如くうち解けて、種々なる面白き談話や、奇抜な手品、不思議な輕業、おかしき義太夫、眞面目な謠、落語、講談等引も切らずに現はれて、皆々腹の皮を捻つた、かくて興はいつ迄も盡きねど、此夕の汽車で歸るものもあれば、溌暮散會、何れも滿足の意を表し、更に來年の夏を期して惜き袂を分つた。
 ▼閉會前々日、天王寺境内で全會員の集合寫眞を撮つた、五六人集りに漏れた人のあつたのは殘念である。パノラマ寫眞も五六枚撮ッたが、不意であつため位置が極めて自然で、中々面白い態度をしてゐた人も居た、併し殘念なことには、若早夕景で光りが、足らぬ爲め、明らかに撮れなかつたから製版することが出來ぬ。
 ▼寫眞については大阪の桑田勝三郎氏に少なからぬ御盡力を仰いだ、講師も會員も深く其御厚意を謝するのである。遠方より來會せらるゝ會員のため約束して置た旅館西照館は、取扱上に於て多少不滿はあつたが、殆と百二十坪の塲處を吾々で占領して、自由に使用した譯で、他では眞似の出來ぬ贅澤な暮しであつた、そして庭は驚くべき程廣く、樹木に富んでゐて、夜分などあまり暑熱に苦しまなかつた。
 ▼寄宿生は二十名を限つた、他は學校の近くに下宿した、西照館の二十名は講師と殆と同室であつたゝめ、自然繪畫上の談話をきく機會が多く、皆々滿足してゐた、室には幹事として西君萬事の周旋をなし、日野君これを補助して一切の事を處理し、森島、吉崎兩君も種々奔走された、衞生係として竹下君其任にあたり、各々衛生上の注意から、洗濯物の取纒等を掌とられた、富田君はおとつさんとよばれて、寄宿舍の重愼としてなくてならぬ人であつた。
 ▼かくて寄宿舎に於ては、年弱き人も壯んなる人も、皆一樣に無耶氣に、實に和氣に滿ちてゐた、朝は一同五時迄に起きて、六時には食堂に集まり、夜は十時後は靜まり返って皆眠りに就いた。多くの會員のうちには豪家の主人もある、我儘な息子もあるであらうが、夫等も皆愼しみて他の迷惑になるやうな行ひをするものは一人もなかつた、別に禁じなかつたが、晩酌を傾けるといふ人もなかつた、何處の部屋も皆暿々たる談笑の聲ばかりであつた。
 ▼寄宿生のみの茶話會は、夜分二回程開いた、何れも面白き隱し藝など出て盛んであつた。
 ▼今回の講習は、前回に比して遙かに進歩した、萬事秩序がたつて、勝手な行動をとるものは一人もなく、皆眞面目に勉強された。そして充分の滿足を得て歸られた。寄宿の會員達の中にも、業を休む程の病人も出來ず、無事に修了したのは吾々の喜びに耐えぬ處である、希くは第三回の時もこれ以上の好成績を擧けたきものである。

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