寄書 樺太島オロンベ記行
小島染葉
『みづゑ』第二十八
明治40年9月3日
六月九日晴天、余は或る用向方々土人の藤助を供に三十里北のオロンベントマリ迄寫生を試むべく、午前六時テモトマリの我が漁舍を出發した、マウカに着したのは九時頃で有た。
マウカは西海岸第一の都だけに汽船の出入も數茂く。何時來ても賑で有る、紅梅町の通りにて喜田谷氏に逢ふ、同氏の川崎船はオテコロへ行くを幸ひ川崎船に乘りこんだ、船は澤山の莚を積で居る、其の上に余と土人の藤助が陣取た。九時十五分船は帆に南風を孚んで出帆した、十時船内にて樺太名代のメノコ山を寫し、正午より南風は強く加り、第二ノートロ岬に至りたる時、空は曇り波さへ高く、船の左右よりは激波の飛沫は我等の頭上に浴せかかるので、實に生きたる心地なし。午後四時船はオテコロ川の川口に座砂し、入水の爲めロツトマンをひたした、オテコロに上陸したのは五時で有た。
と有る茶店に少憇し草鞋の新しきを穿ち、茶店の女が危險な道だから氣を付けてと云ふ世僻を聞き流し、オテコロを發足した、此所よリオロンベントマリ迄は三里で有る道中オテコロ川の渡茶店を寫す、土人露助等は廻りを取巻き、怪しげなる評を試みたそれよりウシスに來り内有名なる、斷崖を寫した、斷崖は嫌際として恰も屏風を立てた樣で有る、オロンベントマリに着したのは八時にて、樺太の長き日も九時、日はダンタン海峡の波に沒した、其の後は忠谷漁舍に宿り、主人の好意にて入浴晩飯雜談の末安き夢路に入つた。
十日、鶯啼に夢を破つたのは八時で有る土人藤助は午前二時日の出と共にチーカイに發足せしときに、余は朝飯もソコソコに主人に好意を謝しオロンベを出た、晴天、余ば來りし道を跡戻りし、午正オテコロに着例の茶屋にて中飯し、陸行する事數里にして、チカイのアイヌ小屋に着す、アイヌ小屋を寫す、藤助來らず、之れよりチカイナイボーに行くには、樺太第壹の大斷崖を越ねばならぬので有る、波なき時は賃すれば渡船もあれど、今日は高波の爲め船出ず、山越ひせねばならぬので有る、渡船宿の老媼の談話には之たより山は道路とてなく、密林中には巨熊の出沒するは珍しくないとの話に、不案内の余は渡場の船頭を案内者に、力を得て身幹よりも高き熊笹を推分けながら、ドト松の密林中へ足を運んだ急峻を或は登り又は降り、日を見ざる密林中を行く、一里にしてチカイナボーに着した、此所にて案内者を歸した、ナイボー瀧を寫す、大内漁舎に宿した、道中熊を見ぬのは幸であつた。
十一日午前二時、チカイボーを出發す、此の海岸は鰊大漁にて、鰊の上を徒歩する事五里にしてノダサンに着した、道中ビタレンルンにて鰊沖上を寫す、ノダサンは樺太の公園とも云ふべき地で有る、此のノダサンに入るには南より來るも北よりするも是非渡船に乘らねはならぬ、ノダサンの大川は市の南北に流れて居る、余は北の川を渡つた、町の童に宿とへば、菊屋と云ふに導く、二階より南崎を寫す、女中の持來る茶をそーと飲み、例の寫生函を左手に右手に三脚を持つ、北の渡の川口南川の渡市街を寫す、七時宿に歸る、尚明日は川上等寫さんと思ひしに雨ポチポチ。
十二日雨降り、汽船の汽笛に目をさまし、マウカ行きの汽船が來ましたとの女中の報せ、雨中を渡島丸に乘る、船窓よりノダサンを寫す、風景は油繪の樣で有つた、午前七時半錨を捲たマウカに着したのは正午で有た。