水彩畫を修むるの基礎[上](大阪に於ける講話の一節)
大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ
大下藤次郎
『みづゑ』第二十九
明治40年10月3日
△繪を畫くのは甚だ面白いものである、筆を持つては寝食を忘るゝことは珍らしくはない、寫生に往つて手許の暗くなる迄もパレットを離すことの出來ぬは樂しいからである、何の藝術でも稽古となると苦しいものである、獨り繪に於ては(專門家は別として)大なる苦しみなしに研究して往ける、然るに此樂しい繪の稽古を苦痛とする人がある、それは何故であるか。
△繪の稽古に苦痛を覺ゆる事あるは、繪を學ぷ一定の順序を踏まぬ故である、繪を描く上に興味を覺えぬは、やかで、折角感受しつゝあるこの高尚の趣味を失ふ基をなすものであつて、その人にとりては大なる不幸といはねばならぬ。
△さてその順序は如何にすべきか、それは恰も小學兒童が文字を習ふやふに、片假名から平假名、それより簡單なる漢字といふ風に、容易なるものより複雜なるものに進みゆくのである、即ち繪畫の第一歩なる形を充分研究し、次に明暗の調子、次に彩色といふ順序に習つてゆくのである。
△物の形も滿足に寫せぬうちに繪具を弄ぶは大なる間違である、物の明暗の調子も充分現はし得ずに彩色を用ゐたがるのは不心得といはねばならぬ、現に歐米を通じて、何處の研究所でも、假りに卒業(繪に卒業といふことはないが)を五年とすれば、四年は墨繪を習はせ、あと一年丈け繪具を持たせるに過ぎぬ。
△若し諸君が、只一時の慰みに水彩をやつて見やうと思ふ位ひなら、格別墨繪を永く稽古しなくともよい、物の輪廓さへ、相應にとれゝばそれでよい、併し、苟も一通り他人に見せて耻しくもない(素人として)寫生でもやらうと思ふなら、是非この大切な墨繪から稽古してゆかねばならぬ。
△墨繪といへば鉛筆、木炭、チョーク、一色畫等皆それである、そのうち水彩畫を習ふ修養としては鉛筆と一色畫とがよい。
△鉛筆畫は物の形を正しく寫す稽古をするに適當である、鉛筆畫にて明暗の調子の稽古も出來るが、何分強き光りや深き暗さを示すに不充分である、且最光部と最暗部の、中間の大切な幾階段の濃淡を現はすに困難である、それ故鉛筆では形の稽古を主として研究されたい。
△一色畫はセピア、ニユートラルチント、ヴアンダイクブラオン、インヂゴー、オリーヴグリーンパープルレーキの如きある一色で畫く繪で、專ら明暗の調子を稽古するに適する、そして多く用ゐらるゝはウオームセピアである。
△一色畫は、最光部を示すに紙の白きを殘せばよく、彩料を濃くつければ最暗部のタツチをして深味を見せしむる事も出來る。又淡き色を幾度か重ねる事によつて、濃淡の調子を幾十階段にも示して、繪に落つきと圓味を現はするも出來る。且毛筆と繪具を以て畫くにより、他日水彩畫を試むるとき、描法其他に大なる助けとなるのである。
△先づ鉛筆を以て飽迄形の稽古を積め。同時に眼の練習もなして、線の角度長短釣合等を一目して見出し、直ちにこれを紙面に正しく寫し出す事が出來るやうに充分熟練を重ねよ。而して後一色畫を以て、物の明暗の調子を、圓いものは圓く、遠いものと近いものゝ區別等を、正確に現はす稽古をなさねばならぬ。(つゞく)