雲(ラスキン氏近世畫家の一節)

霧鴎生
『みづゑ』第二十九 P.3-4
明治40年10月3日

 雨中と雨後の雲は異る、雨降の最中には、雨雲は高く全空を蔽へども、雨止みにならうとすると、突然白雲の一群が甚低い所に現はれ、空中に滿ちるが、十分間位も飛んで居て、やがて、また突然に消え去ることが屡で、後は灰色の高い雲が殘て大雨を降らす。この『雨止み雲』は普通淡色で、水平に現れるが、折々は巻雲かと紛ぎれる時もある、雨やみて空氣暖かに赴けば、緩和な環状運動をしながら上空に消え去る。
 夕立雲は、色の強きと全雲の暗きとにより、壮大の感を起せど、線として見れば軟かである。
 夥く巻雲の浮遊する日没の空を觀察せば、空、殊に天心では、二吋の間すらも同じ色彩でないことを見る。一片の雲は、冷き青色の暗部と乳白色の部とあり、其の上層の雲は光部は赤く暗部が紫色だか、太陽に近い雲は橙黄色に黄金色の輝ける緑をとつてゐる。是等の色彩は吾等の眼に錯雜して映じて、暗い雲の冷たき灰色の蔭と辮へ難い空色の上に見える、その空色さへも、明るく奥深く又淡く種々にかはる。此變化は、大雲片や、廣い面で起るのでなく、一★平方内で時々刻々起るのである。
 太陽高く輝きて、青空地平線につゞける晴朗の日に、窓により、白紙を持來りて、これを晴空に對せしむれば、忽白紙が暗くなるに驚くならん、直に紙を置き更ふれば、紙は依然として白く、暗き事なし(白の蔭は或る事情の下には黒く見ゆれど普通褐色に見ゆるを常とす)前例にて、紙は暗く見えたれど、白色なることは紛もなくして、只輝ける青空と比べたればこそ、比較的に暗く見えたるなり。この現象は、吾人が寒暖に關しての感覺にても同様なり。今右手を暖に、左手を冷くし置きて、兩手の温度の中間なる温度の水中に、交互に兩手を入るれば、右手を入れたるときは冷く、他の手を入れたるときは暖かく感ず、しかも水は確に定度の温さを保持して居る。
 此理は明暗の關係でも同じである。晴空を見たる眼を直に白紙に轉ずれば、白紙の暗く見ゆるは比較上より暗しとの感が起る故であつて、白紙と晴空の色彩は、もとより定まつて居る。空は青き色にあらず青き光なればとても人間業で繪具などで描き出し得るものでない。
 次に青光の中に白き光のある場合、即白雲の搖曳する時を觀察すれば、青空が白紙より明るきと同樣に、白雲は青空よりも明るし。白紙の明るさを十度と假定すれば、青空はまあ二十度、白雲は三十度位ならん。今又白雲を注意して觀れば、何處も一樣に白くはなくして、雲の一部は他部と比べて灰色なることと、雲も明と暗の現象に富むことが判るであらう。されば雲の最暗部でさへ尚天色三十度)よりも明かるければ、其の最光部はそれよりも十度も明かるく、從つて白紙の十度なるに對して四十度の明るさとなるのである。今眼な青空及白雲より、漸次太陽近く移すと、白紙より四倍も明るかつた白雲も、太陽近くにありて凝視し能はざる銀光色の雲に比較せば、全く黒くて光彩なきものと見ゆるであらふ。

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