澁温泉水彩畫講習會[上]

丸山晩霞マルヤマバンカ(1867-1942) 作者一覧へ

丸山晩霞
『みづゑ』第二十九
明治40年10月3日

 本夏の水彩畫講習會は、大阪と信州に開會することゝなり、大阪方面は既報の如く、頗る盛會にて好結果を得しは、斯道のために賀すべき事である。信州の方面は、今春長野市の有志者が開催して、講師は大下氏と余とで好成績を得しも、有名の寒國なれば、室内静物寫生のみにて、郊外寫生の出來なかつたのは遣憾である處より、本夏の暑中休暇には、是非共何れか交通の便利なる避暑地に於て、開催したきものであるとはその頃の希望であつた。其後場所の選擇を爲して、八月一日より澁温泉の内上林に於て開會する事に定つたのである。開催者は本春の人々にて、講師は吾研究所員と相談の結果、河合氏と余と信州方面に出席する事となつた。
 石榴の花軒に赤く、樹影の庭に短き眞晝の炎熱に蝉鳴く八月は近づいた。吾等は七月二十九日、東京方面より出席する會員と仝行を約し、午前六時上野發新潟直通の列車にて行く可く、吾等は道の都合上日暮里停車場より乗東の事に定めた。余は河合氏を急き立て日暮里停車場に着せしときは、發車時間に早き事約二十分。この朝東京には珍らしき濃霧にて、常に見し上野の森も異なる色を現はし、深山にありて見らるゝものの如くであった。暫くして霧を透して響く汽笛は上野方面より來たる列車にて、吾等と仝行する講習生の多くは、窓より顔を出たして、待ちつゝある吾等を迎へたのである。長く續きたる室は皆滿員にて一の空席無し、漸く最後に近き室に空席を見出してそこへ乗り込んだのである。新潟直通の急行なれば、窓より外を眺むると、近きものは流るゝ如く、遠きものは走る如く、そして空飛ぷ燕雀は汽車と競争して、少しも動かず空中に靜止する樣に見えた。三河島田甫の近き畦畔の樹木は濃緑にして、田の面の縁は鮮色を極めて、遠きは霧のため地平線見えず、縹渺海の如くであつた。所々の南瓜畑は、一面に黄金の如き花咲きてこれも美はし。王子の工場より立昇る黒烟は、何時も余に悪感を與ふるので、これが文化の魔の氣嗅ともいふ可く、この氣に觸れし草木は年々歳々枯死して、古來楓櫻の名所と歌はれし飛鳥山は、今ぞ見る影も無きまでに荒果てしこそ、實に苦々しき事である。汽車は今荒川の鐵橋を走る、汚れし服着たる兵士の群は河畔に働て居る、人を殺す練習ならん、戦闘!人は平和を愛するが如く然も戦闘を好む動物である。余は何時も兵士を見る毎に思い出すは形ばかりの兵營ありて兵士無く、國民あげて皆兵士、その兵士は各々故山の平和なる野に牛羊を養ひ、然して水明の境に耕す歐洲の花なる瑞西國を忍ばずには居られない。かくて汽車は走る、霧は小雨に變じて上武平野の縁は倍々鮮である。余が汽車旅行唯一の樂みは、車窓の縁を額縁として、それに現はるゝ變化の自然の活畫を眺むるのである、前景の芋畑、中景の農舎、さては遠景の山等面白く、時には耕す農夫桑摘む乙女等の人物畫も見らるゝ、暮行く空の色、穗薄を配した夕月、如何に面白く感ずるてあらふ。然して最も厭はしきは、停車場に長く停留して、一種人の耳を聾する樣な聲を發し、スシにベントー、アンパンにタバコ、ギユーニユー、シンブンザツシキシヤノジカンヒョー、オチヤー等の叫びである。この朝の霧は日中になりても霽れず、赤城、榛名、妙義の山々淡く見えて高崎に着。停留約十五分にして高崎を出づ。小雨は止み霧は霞の如くなりて日漸く現はれ、東側の窓は皆閉ぢられて暑氣烈し、西側に居る余には窓の活畫を見る事が出來なくなつた。暫く視眼を休める爲め眼を閉づ。鐵橋を走る音聞ゆ、思ふにこれは烏川の鐵橋ならん、程無く停車場に着、安中驛と思ひきや、驛夫は前橋と呼んで過ぐ。ヤッ自分は乗換無しに新潟まで直行と信じて居つたのが、前橋方面に直通するとは案外千萬である、兎に角こゝで下車しなくてはならぬ。半眠りの河合氏を立たせ、仝乗客の手前も間違つたといふてはきまりが悪いから、小聲で下車する事を通ずると、氏は乗換ゆるのかといふた、マァ何でもよいから早く下車するのだといふて停車場に出で、高崎の乗換ひを間蓮つた事を語ると、氏はブツブツと小言を列べた、が今更仕方が無い、驛夫にこの事を通ずると、驛夫のいふのに、あの列車は高崎にて二つに別れ、先の列車は新潟直通で、あとの列車は前橋方面に直通するのであるとのこと。それから前橋から高崎に歸り、上野第二發の直江津行きを待ちてそれに乗つたのである。奇しき妙義の山も霞みて明かに見えない、碓氷のトンネルは眠つて過ぎ、輕井澤に着たのは十二時過ぎであつた。輕井澤高原の草花はまだ盛にならない。淺間山は雲に隠れて見えなかつた。されど余の深く感じたるは、信州一帯の高原を彩る鮮な緑である。自分の故國は信州にて、故國にありしときは、夏の緑に深き美感を有さなかつた、が塵煙に汚れた都の黒ずんだ緑を見て居つた眼には、今更の如く感じたのである。この日は何時も空氣の澄明して居る信州も霞んで、遠き飛信一帯の雪の連峯は無論見えなかつたのである。汽車は高原を走りて吾故郷近くを過ぐれば、このあたりの自然は舊知己に再會する如く、彼等は微笑みて余を迎ふる如くであつた田中停車場に着くと、吾等の乗れる汽車より降車する客あり、その人は舊知にて余の故郷に歸るのである。余先づ呼び止めて、故家に安住する母へ無事てふ傳言を托した。田中驛を發すれば、烏帽子岳の山麓に夕日を浴びたる村が見ゆる、それが余の故郷で、余には自分の故家と畫室までが見えた。汽車は千曲河に沿ふて、岩鼻、姨捨等左右に眺め、河中島の平野を走りて、豊野停車場に着たのは午後六時頃であつた、豊野より人車を雇ふて、晩凉を車上に浴びつゝ、千曲河に架したる立が花の船橋を渡り、中野町にて休憩し、人車を換へて澁上林温泉に着たのは九時頃である。
 發起者の人々は、吾等が今日上野六時の發車に來るを長野停車場にて迎へ、仝道して講習會揚に行く筈であつた。然るに仝車したる會員のみにて、吾等二人が途中で消滅せしは不思講なりと、評議最中に吾等の着して、途中の失敗を物語ると、吾等二人には有得べき事と大笑したのである。
 講習會場の上林温泉は高丘にありて、眼下に細野、澁角間等の温泉場を望み、星川角間川其の間を流れ、遠く飯綱、黒姫、妙高の山岳を經て、日本アルプスの名稱ある飛信一帯の夏時殘雪を残す諸峰を見る。こゝは新開地にして湯宿は上林館及び塵表閣の二つありて、二舎何れも巨大の建築にて、六十有餘名の會員を二舎に分ちて止宿したのである。事務所は塵表閣に設け、長野市より彩料舖銀杏堂は出張店を設けて、水彩畫具一切を備へて、會員の便に供し、準備全く成りて既規即ち八月一日開會式を執行す。來會せる講習生は三府十一縣の人々にて左の通り
 東京志賀正人仝中井久太郎
 仝栗山善之助仝大城有樹
 仝加毛精一仝牧野露香
 仝牧野靜子神奈川縣長谷川曾一
 神奈川縣岸順一仝馬場佐介
 仝鳥海貞三郎山梨縣角田松平
 愛知縣太田兼吉京都木村新吉
 京都岡本善之助大阪芦田源太郎
 山形縣川島頴正千葉縣窪田琢三
 福島縣箭内名左衛門新潟縣吉川恭平
 新潟縣岩崎恒作仝下村静四郎
 仝青山市治仝高野小四郎
 栃木縣和賀井恂仝初谷嘉一郎
 群馬縣小林平治仝松出松太郎
 仝根岸橘三郎仝中島澄作
 仝小林秀治長野縣小山侶平
 長野縣牧寅治仝細野順耳
 仝古田後十郎仝久保田金一
 仝瀧澤傳仝青木賢治
 仝田澤正義仝小松傳一郎
 仝御子柴篤行仝高野忠衛
 仝柄澤長左衛門仝宮下貞治
 仝吉澤與吉仝武田新太郎
 仝野本文雄仝榎本滋
 仝岡藤貞治仝佐藤武造
 仝小林金治仝永井參治
 仝丸山寅治仝百瀬深次郎
 仝柄澤二郎福井縣小林幾太
 群馬縣加瀬駒太郎東京松浦政次郎
 東京鈴木一治長野縣志村こかね
 發企者
 長野縣福山壽久仝赤沼滿次郎
 仝芳川廷輔仝池田長治
 仝齋藤金藏仝金井義司
 仝町田清太郎
 以上六十六名
 會員の身分は、學生、中小學校教員、實業家、官吏等である。會場は教室なき爲め、止を得ず黒板を遠き小學校より借りて、上林館の下座敷と定め、主に郊外寫生を爲した。初めて筆を持つといふ初學者は、室にありて静物寫生、鉛筆畫、臨畫等その希望に任せ、授業時間は午前八時より正午迄郊外寫生、午後一時迄が休憩、一時より二時半乃至三時迄が講話、★時より五時迄郊外寫生と定め、人員を二つに分ち、一を河合一を余の受持とした。寫生の場所は午前と午後に分ち、上林の附近なる地獄谷(星川の河畔に雷の轟く如き響を爲して熱を奮騰す高さ數丈壮觀を極む)星川の河原、細野温泉及び澁温泉場の道路山水、角間川の河原、琵琶池、澗滿の瀧、其他森林、渓谷、展望等である。中頃に至り講話は午後六時より八時乃至九時迄と變更す。寫生の方法は場所を指定し位置を定めてこれを描かせ、時々廻りて一々説明し、初學者には自ら描寫して説明した。上林の高丘にて見下すと、澁附近一帯は畫家を以て充したといふてもよい程であつた。河合氏は山をあまり好まぬので、多く平地の方に出かけ、余は大の山好きであるから多くは地獄谷の方へ出かけた。偶々石井柏亭、山本鼎の兩氏が來遊ありて、有益なる講話と會員作品の批評等を請ふて、一段の興を添えた、吾等はこゝに其勞を深く謝するのである。(つゞく)

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