水彩畫を修むるの基礎[中](大阪に於ける講話の一節)
大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ
大下藤次郎
『みづゑ』第三十
明治40年11月3日
みづゑ第三十
明治四十年十一月三日發兌
水彩畫を修むるの基礎〔中〕(大阪に於ける講話の一節)大下藤次郎
b:△鉛筆を以て形を稽古し、一色畫にて明暗濃淡の調子を覺えたら、次は色である。
△彩色を用ゐる場合には、輪廊は手早くとらぬばならぬ、この場合に、形が出來ずにいつ迄も苦しむやうでは、其人はまだ彩色を用ひる資格がないのである。
△寫すべき物を見たとき、第一に目に入るのは光りであるが、畫を描く上に於ては、まづ其形を呑込まねばならぬ、形の慨念が入つてから、次は明暗の調子で、色を見ずして、明るい暗いの調子が、寫生する人の目にすぐ入らねばならぬ、たゞ色ばかり見えて、何處が一番明るいのか。何處が一番暗いのか、その區別が一目して分らぬやうでは、まだまだ繪具箱に手をつけることは出來ぬ。
△墨繪の素養の不充分なうちから繪具を使ひ出すと、たゞ色ばかり紙の上に并べられたのみで、前の木と橫の崖とは何れが暗きか、空と水とは何れが明るいかとの研究が出來でゐないから、其繪には、遠近や圓味や深みが現はれない。啻に其感じが現はれないのみでなく、却て遠いものが前へ出て來たり、日蔭にあるものが日南にあるものよりも明るくなつたりするのである。
△形の間違は、尺度や定木や其他の器械で正すことが出來る。明暗の度は、調子鏡の上で比較し」て見れば誤なしに寫し出すことが出來る、そして此通り間違つてゐると、教師は明らかな證據を示して教へることも出來る。
△乍併、色彩に至つては主觀的のものである、靑とか赤とか、大體については元より誰の目にも同じ感じに映するのであるが、複雜な微妙な色となると、甲の見る處と乙の感ずる處とは必ずしも同一でない。
△色彩は丁度音聲のやうなものである、杜鵑の啼聲は國によつて異なる、其聲は異なるのではないが土人の聞いた感じか異なるからである。物賣の聲もそうである。色彩も複色となると、同じ鼠色でも赤を帶びてゐると思ふと赤く見える、黄が含んでゐるかと思ふと黄にも見える、各人の感じ一つであつて、吾々がこの色は何と斷言することは出來ても、證據立てるのは困難である。
△それ故に、色彩は最もムツカシイものである、同じ鼠色でも、赤を感じて其色を含ました方が、繪として全體をよくさせることもある、又赤の爲めに害になることもある、この場合に、何れの色なり、よく調和するやうに活用するのは、畫家の働きである。
△形が正しく、明暗の調子に誤りなく、色彩が眞を寫して居つたら、繪としての形式は供はつてゐる。されどこれ丈けにては完き繪畫とは云ふことが出來ぬ、この上にその物の感じが現はれてゐなくてはならぬ。
△物の感じを現はすといふことは容易なことではない、この現はし方の上手下手によつて、其繪に死活を與へるのである。巧に現はせばその繪が活きる。
△一筋の線にも、一抹の色彩にも、死活がある。同じ一本の線でも。強く急に引けば力が籠る、弱く緩やかに引けば柔かな感じが出る、繪具を紙の上に置くのと、ナスリつけるのとは現はれた感じが違ふ、強く引いてよい場合もある、ナスリつけるのが必要な時もある、其用ひ塲處がよく働いてゐる時は、物の感じがよく現はれるのである。
△物の感じが充分に現はれて、即ち其繪に精神があつたら、無意識に生じた形の上の誤りや色の相違は問ふに及ばぬ、古今大家の繪にして、分析的に調べたら往々間違を見出すものもあるが、其畫の力は微細な缺點を掩ふて餘りあるので、却て形や色に齷齪してゐては、充分の働きが出來ぬのである、詰り傑作は出來ぬのである。
△さはれ、これは充分修養ある人、基礎の出來てゐる人の上にのみ許すべきことであつて、修養を勉めずして單に感じの精神のといふて、先にのみ走ることは、繪を學ぶ人々には斷じて禁物である。
△中世紀以後の日本畫は、たゞ感じばかりに重きを置て、氣韻生動とか、筆勢雄渾とかいふて喜んでゐた、昔しはそれでもよかつたろうが、鑑賞眼の進歩した近頃では、たゞゴマカシ的の感じや、態とらしいツケ元氣の筆力などでは看る人が承知しなくなつた。
△精神とか元氣とかいふから、例を戰爭にとつて見やうなら、昔しは勇氣さへあれば隨分戰に勝てた、今では如何に勇氣があつても、精良の武器と、それを運用する智識がなくては到底戰爭には勝てぬ、日本の軍人は如何に強くとも、弓や長刀では今日の戰爭は出來ぬ。
△水彩畫を學ぶ基礎となるべき墨繪の修養、それを爲さずして、彩色畫を描き、巧な繪を作る人もある、百世稀に見る天才といふものは別として、慨して如斯人の繪は、專門家より見れば一のゴマカシ繪で、將來の進歩を認むることが出來ぬ。
△神戸橫濱あたりの車夫はよく英語を話す、知らぬ人は其語學の力に感服するかも知れぬが、荷も其道の智識を有するものには聽くに耐えぬ。正則にABCより初めし人の會話には、確かに品格ありて、巧ならずとも尊重すべき價値がある。
△娯樂として繪を習ふものも、希くは車夫的にあらずして、品格ある學者的であつて欲しい、それには、是非一通り、基礎となるべき墨繪を練習されたきものである。