水[上](ラスキン氏近世畫家の一節)

霧鴎生
『みづゑ』第三十
明治40年11月3日

 凡そ無機體の中で、他物の力をからず、又他物と結び合はずに、全く自己の牲質ばかりで活動するものゝ中にて、水は最驚嘆すべきものであらう。水は變化や美觀の源因としては、雲に於て、これを知ることが出來るが、尚、地球表面の高低を上手に形づくつた事や、鑿、細工して美しき懸崖を作つた事でもわかる、又雪となりては、自分の造つた山岳に上被を着せて絶美の光彩を現はす、急湍の泡沫となりては虹が懸かる、朝は靄となつて昇る、深い清澄な池に湛えては岸の影を浸す。濶さは湖や川とても同樣である、そればかりでなく人間の心に對しても、忍耐、剛直といふ樣な感を起さしめる、海水でも左樣である。
 靜な水の平常の有樣、即ち水面や反照を畫布に描いて、水であることを、誰にでも理解させるのは左程困難な仕事でない。
 併し、反射する水面の活き活きした樣や、水の種々の形、即ち大瀑布が火箭の疾過する樣に落下する樣や、形は山の如く、運動は雲の樣でしかも色彩の多樣優雜な海の波濤の光景や、日光が海水を射て深水の下にある岩礁の色と相映ずる有樣を、完全に描き現はす事は、到底人力で能ふもので無と思ふ。
 水の有樣を支配する一般の法則は、水が如何なる形となつて居る場合でも、同じ影響を與ふるものであるから、個々の塲合につきてはいふまい。
 水が影響を受くる光學的事實の一二を擧げることは、必要だらう。これより述べるのは、讀者が觀察すれば直に證明し得る程の明白な事項であるが、此等の事でさへ知つて居らぬ畫家を見受けた事がある。これは思考したり、理論を探究せずに、漫然と自然を寫生すること、家の内で仕上をすることから起つた過失だらうと思はれる。
 畫家が水に映つた景色を描くとして、實際眼に映したまゝ自然其儘を描き出す人は、餘り多くはあるまい殊に畫面が廣く、天氣摸樣の穩かで無い時、などは尚更である。
 古は、穩な水を描いて彷彿させることは容易い業であつて、風景畫が野外で寫生さるゝときでも、水は何時でも仕上し得るものとしてあつた。されば家の中で水の色を或時は冷たき點色に或時は紫を帶びし靑と緑で染めて、水平線は何時でも弱い線が引かれてある、こんな仕方で結搆、タツチと光とを現はしたが、諸物薄つぺらで、何時でも陳套の方法を用ひる弊がある、
 今、路傍に小池があつて、圍りの景色よりも、池中は汚いとしても、吾々が左樣だらうかと想像する程汚き、ものでは無くつて、其の面には、喬木の枝も影を映せば、風に動く木の葉も影を落して、種々の色彩や空中の多趣な光も見える。
 又汚ない市街の渠溝でさへも、見た程に醜い事ばかりではなくて、溜つて居る汚水にも天空の靑色や、雲の飛び行くのを映して居る。
 そんな事を洞察して、醜中美を求むるのが凡庸畫家と大畫家との生ずる分岐點である。凡人は、路傍の小池が濁水なるを知れば、それをそのまゝ濁池に描き、非凡の畫家は、濁つた水から一日も掛かる仕事を見付け出して、サツササツサと之を描き現はすのだ。
 畫家が、叢の内にある汚い小池を寫生するとて、其の時に、自分が今描いて居るのは水であるなどと、又其の水はこんな方法で描き上げ樣などと考へずに唯自分が見たる儘に描くことは極めて良い事で木でも葉でも、空行く雲や池心に映る雲でも、石でも、總べて斯樣して描きたきもので、かくすると水を描く事につきて、有益な感與をもつて家に歸ることが出來る。されど普通、畫家はこんな風にせずに、初めから寫す小池を汚い黄色の圓い水面であると思ひ込んで仕舞か、左もなくば別に思更へる、故に優雅に描けるものを汚い拙劣な失敗の作品にしてしまふ。水は透明だから、受射鏡の樣な完全な反射面を有して居ない。
 ある水面の反射のカは、反射さるべき光線が其面上へ一落下する角度の如何に由るものでこの角度が小なれば反射される光線は多いのである。
 反射する光線の量は、水の上方にある物體を映つす力となり、透過する光線は水底物を認め得る力となる故に水の澄み渡たると、物を映すとは反對の理があるのだ。
 上方から水面を瞰き込めば、透過した光線の爲めに、底と水面に浮んで居る物を見ることが出來るが、水が深くなると、眼に受くる光線の少なくなる爲めに、水面は高く見える。
 水邊に佇立してゐると、水面からの反射光線を受けるから、水面に水よりも上方にある物體の映像を見られる、故に、岸が平で水が淺い時は、足元近く、明かに水底を見ることを得るが、水邊を遠ざかるに伴れて、不分明になる、といつて、水が別段深くなつたのではない、かくして、其人の身長の高低にも由るが、兎に角十二★乃至二十★も雜れてしまふと、全く底を見ることが出來なくて、唯水面の光るを見るばかりである。
 物體が反射して益々明るくなるに從ひ、目に入る反射の角度は益々大なり、言ひ更へると光るものは能く反射して見えて、暗いものはその暗さの工合によりて見えたり、見えなかつたりするのである、故に暗い物體は比較的に水面に及ぼす力が少ない。
 暗い木立の上に晴空が見える河岸に立つて水面を見ると、空は能く反射して水底を見こるとは出來ないが、木立の暗蔭が反射した所では、底の色と水の色と混じつた色調を見られる、そして其の色が暗い影を落してゐる木の色までを變はらせてあるのが認められる。

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