ピーター、デ、ウイント[一]

青人
『みづゑ』第三十
明治40年11月3日

 デ、ウイント、コツトマン、デヴイツド、コツクス、―これ等の好風景畫家は其當時世人の多數に蔑親せられつゝありけるなり。しかも皆繪畫の作製に力を盡して、其多くは貴重なる作品なりしかども、畢寛英國人はこれ等の畫家が死後に到りての名聲の碩甚たらんことを望みけるなり。英國人は繪畫を愛好して借かされども、多數の天才畫家の功績に對しては賞を行ふことの甚だ緩漫なりしのみ。
 

森寅太郎筆秋

 コツトマンは稀有の天才なりしが、三人中最不運なる人にて、好く其不幸に耐忍しけるなり。コツトマンは生涯、美術展覽會の奴隷なりき。氏は心弱はみ力の衰ふるまで筆を放たざりき。三人中コツクスとデウイントは比較的に幸福なりき。其に家庭の慰籍を得んが爲には、凡人の成すべき職業をも敢て爲したりき。されど死後の作品の價値は躍然として上りけるなり。實に凋落畫家の作品保護に關する法律制定の急務いよいよ増し來りぬ。若し夫れ國民永代美術家基本財産(National and Permanent Artists Funn)に法定にて附屬せる公立競賣にて、大多數中の百分の一に對して、繪畫の恩賞として一定の額を仕拂ふことゝ爲たらんには、其金額は年々著しきものとなるべかり。されば死せる天才が活ける天才に對して、金錢上の獎勵となるべく。かゝる★未の賦金が、永久的の價値ある民有財産として、美術に對する認識となるべきなり。實に其管理の宜しきを得ば、大いに善事たるべし。此れと同時に死後の英國畫家の作品にして、良好のものたる以上は、市塲にて漸々高價に成行くこといふまでもなけん。
 ピーター、デ、ウイントは此好適例なり。氏が生前頂點に達したる價額より死後に至れる今日十倍以上の價額に上れるなり。されど氏の繪畫は市場にあまりに知れ渡り居らざる恨みあり。實に其眞價を知るもの少し。こは甞て、ローヤル、アカデミーの古大家の展覽會に就ても推して知るべく。そは看觀人の多數が、デウイントの二大油繪の雄渾にして人をして魂飛び魄躍らしむるの觀あるに、一驚を喫したりしにあらずや。實に、「あれが仲買人の掘出物てふデ、ウイントの作なるや。如何にも強き立流なる畫家ならずや。何れの風景畫派中に置くも名家たるに耻ちざるべし」これ觀覽人の口々に稱ふる處なりき。
 從來世人はデ、ウイントを仲買人向の賤工を以て見來りて、决して天才として遇せざりしかば、今に至て驚喜の態度もて前陳の言をなしたるなり。氏が作品は水彩及油繪共にサウス、ケンシングトン畫館に珍什として陳列しありしかば、これを研究するの機會ありしにも關はらず、今日前陳の言を聞くに、甚だ異樣の感なき能はず。
 又一方よりいはゞ、氏が傳記研究に付て、甚だ難事あり。其故は氏か傳記として引用すべき書籍の殆となきが爲なり。エンサイクルペヂイア、ブリタニカすらも、デ、ウイントの事は一行をも載せざるなり。たゞ國民傳記字典に極めて短き略傳あるのみ。一八八八年にサー、ウオーターアームストロングがデ、ウイントに關する貴重なる書册を出版しぬ。こはデ、ウイント自記の言行録より夫人が手寫したるものを某礎として書きたるものなり。されど不幸にも此の册子は紹版し居ければ、多く研究者の目に觸れざりき。
 デ、ウイントは和蘭豪商の家族なりき、共力にて世界の到る處に冒險的の商業を行ひつ。或者が巴里に旅行すれば、他の者は更に冒險的にウエスト、インデースに出掛くるが如き、またニユーエングランドに家を搆ゆてふ状態にてピーター、デ、ウイントの父ヘンレーは亞米利加幹部に屬しぬ、靑年時代は紐育にありて、其後の教育は歐州にて受けぬ。最初レーデンにて醫科を卒業してより、倫敦にてセント、トーマス病院に修學しぬ、米國よの許可を得て、倫敦に勉學しつゝある間に、ワツソン嬢と結婚の約なりぬ、此娘は蘇格蘭のローランドの人にて、父は無謀なるプリンス、チヤーレーの勤王の爲めに財産を倒盡しけるなりき、されどヘンレーは其貧因をば意とせざりき
 

カッサン氏鉛筆臨本の内

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