淺間の裾[下]

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

汀鴎
『みづゑ』第三十
明治40年11月3日

 十月一日晴
 河を渡りて松原を寫す、午後より淺間を寫す、畑に鍬とりて働ける農夫の近く進み來りて「縣廳よりの御出張にや内務省よりにや」などうるさく問ひ「御苦勞樣」と叮嚀に挨拶して去りぬ、或人は「野天の御商賣でさぞ御辛いことで」と言はれしとか。
 寫生終りて家へ歸れば三宅氏夫妻來りて我を待てり、我の歸りの遲かりしため、語らふ間もなく汽車の時間せまれりとて本意なくも袂を分ちぬ、程なく丸山氏訪はれ二時ほど語りてわかれぬ。
 暗き燈火のもとに、蒸し返せし粗飯の不味なるを、生ぬるき素湯に浮べて強て流しこみ、久戀の地にあらじと屡々嘆聲を洩しつゝ淋しき臥床に入りぬ。
 二日 晴
 淺間下しの風いと寒し、後の方高地より千曲川沿岸の大景を寫す、風強くして畫架を据へ難く頗る困しむ。午後よりは、千草亂るゝ岡の上の松一本を寫す、風致面白く、薄暮に到るも筆を收むるに忍びず。
 三日晴
 朝も午後も昨日の寫生を續ぐ。夕景家に歸りて燈火つけんとするにはや石油盡きたり、物憂ければその儘にして眠りにつきぬ。
 四日晴
 一昨日よりの場處を寫して漸く成れり、明日なほ一日近き景色を寫して歸京せんと思ひ、そのよし三宅丸山兩氏に通ず。
 五日曇より雨
 起きいで見れば空は曇りて今にも雨ふらんさまなり、明日歸京の筈なりしもこの朝の一番列車にて歸る事とし、俄かに荷物を整へ出發す、我家に歸りつきしは五時に近く、久々にて香り高き緑茶に逢ふことを得たりき。(終り)
 

繪ハガキ競技會一等露

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