澁温泉水彩畫講習會[下]
丸山晩霞マルヤマバンカ(1867-1942) 作者一覧へ
丸山晩霞
『みづゑ』第三十
明治40年11月3日
吾等がこの度の講習に就ては、其の主なる目的としては趣味の養成である、語を換へていふたら尤も趣味ある避暑といふても差支ひない。近來夏期講習會は各地に開かるゝので、その講習所の位置は何れも都會地で、交通其他の便宜上止むを得ぬ事であらふが、さなきだに苦しき炎熱の候にありて、身心共に苦汗を流すは、容易ならぬ勞働的で、精心保養の暑中休暇を無にするのてある。されば夏期講習は如何にして可なるかは目下の間題である。底で吾等は歐洲にありしとき、避暑地を以て有名なる瑞西の山間に遊んで、學生等の爲に設けられし講習所は到る所にあつて、各々其撰む科學の講習は開かれて居るのを見た、歐洲は申までも無く、米國其の他の文明國にありての夏期講習は、必ず避暑地と定まつて居る、等しく心を勞するにしても、一方には避暑といふ快樂と、又山紫水明といふ心の慰籍があるから、夏期の講習は快を以て得る所が多いのである、これが文明的の夏期講習であると思ふ。殊に吾等が趣味を養ふ講習に於ては、無論地を撰むの必要がある、然して在來の講習にありては、何れも學堂又は校舍等を利用するので、自然規則通りに行ふ事も出來るから講習會らしいのである、然るに今回はこの點よりすれは大に異つて居るから、會員のうちにも案外と思ふて物足りぬ感も起つたであらふと思ふが、吾等はクリストが山上の説教の加く、又釋迦が森林間の説教の如く、自然の大きな教室を其のまゝ用ゐたのである。只一言して置きたいのは宿泊所である、吾等荘山間の地にありて甘い食物は决して望まないのであるが、如何にも宿の不待遇には閉口した、一言にて云ひ盡せば、客と主人の區別が無い程であつた、それ程でも主人は大に好待過したとの事である。人間は感情の動物であるから諂諛とは知つてゐても、上手なお世辭でも言はるゝと心もちがよいもので、醜な猫までもよく見らるゝものである、實際澁の風景はよかつたが、不待遇の爲めに餘程殺がれたのである。最初の日は先づ有名なる地獄谷に出がけた、上林を發して温泉の筧に沿ふて杉の林を出つるると、星河の溪谷を展望するのである、こゝより田用水の小流に沿ふて、山の面を迂曲して進めば、朝の雫を充した雜草繁茂して、雪の如き純白のトリアシシヨーマの花、さては凉しき紫の澤桔梗なんどの花咲きて、凉しき夏の朝の感興を深からしめたのである、この邊の山には杉多く、眞黑な杉を透して旭に輝く赤崖等面白く感じて進めば、雷の轟く如き囂々たる音響を聞く、これぞ有名なる地獄にて、熱湯を噴騰するのである。こゝにて道は星河の流に會し、一橋を渡れば浴舍あり、地獄の湯といふ。この附近一帶は各所より熱湯湧出して居る。吾等は先づこの附近に於て各々位置を撰みて寫生することにした。熱湯の噴出を地獄といふは、文字の上より大に驚怖すべきであるが、今はそれ程にも感じなかつた、されど發見の時にありて、巨樹鬱葱として人跡無き深谷の間に、かゝる自然の大活動に接したなら、如何にもその奇しき感と驚怖とに打たれて、地獄的感を起したであらふ。溪谷なれど盛夏の炎熱は中々に苦しい、加ふるに河原の石は皆燒けて、この間に三脚を立てて、思ふ如く運筆の出來ぬ苦と、外部なる暑氣の苦とにて地獄的だと叫んだものもあつた。この附近は畫材豐富で、溪流、山岳、森林等の研究に好適地なれば、或は午前或は午後と、毎日の如く出かけたのである。地獄谷に行くのを單に地獄に行くといふ如くなって、この理由を知らざる人の耳には奇しく響たであらふ。
上林の高丘を下ると沓野温泉場にて、北國街道の宿驛で、今はさびれて居るから、道路山水等の好畫材で、この邊は宿から最も近い寫生區域である、この驛に神社の杉の森がある、日盛りの炎熱にはこの森の中に這入つて寫生したものも多かつた。沓野の驛を下ると星河の河原である、西は沓野の丘で、そこには樹木が深緑色に寅つて居る、東岸は温泉寺といふ寺と境内の杉の森、それより星河に沿ふて澁の温泉場となり、北の方は澁より沓野に渡る和合橋といふがある、南は地獄谷の山々が高く聳立して居る、この河原にて四望すれば、種々に變化した位置の畫材がもとめらるゝのであるから、こゝも寫生地として毎日の如く出かけたのである。
沓野の田甫を經て西に五六丁程進むと展けた谷がある、こゝを角間谷といふて、崖を下りて河原に出づれば、こゝの流は水清し、所々に柳の森、河原チヽコ草等茂りて、畫材又豐富である、こゝも寫生區域となつて時々通つたのである。
角間川の水源は横手嶽より發するので、中流に瀑布がある、この瀑布は含滿瀧といふて、普通は北國街道より見下すのであるが、吾等は角間川の流に沿ふて瀧壺まで極めんと、余まづ卒先して賛同者十數人を得、案内者を賃して出發した、この一行に某子爵とその夫人も居つた、流に沿ふて上る、無論道は無い、沿岸を辿る、沿岸極りて急流を渡る數十回或ときは崖を攀ぢて山の面を迂回し、又は木の枝に頼りて斷岩を傳ふ危險を犯して漸く瀑布のもとに到る、奇岩絶壁の間にかゝれる大飛瀑、高さ四十丈幅六間といふ、鼕々として山谷に響き、瀧壺に落下するさまは實に壯觀を極め、この間の趣を寫生し、こゝより絶壁を攀ぢて山頂に達するので、その危險なるは、岩角木の根を命の綱として攀ぢたのである、幸に皆無事に目的を達したのである。然して一行に加はりし軟弱なる一婦人が、よくこの行を共にせしは實に賞讃すべきであお。吾等登りつめし山頂は琵琶池のある處にて、この日琵琶池方面に出かけし一行に會し、池畔に咲ける柳蘭等採集して歸る。
右の如く畫は寫生し夜は講話をなして、長しと思ふた二週間の講習は終了したのである。この間茶話會及び送別會等ありて、何れも盛會であつた。只余の遣憾とせしものは、この附近數里に渉りて、平家の落武者が隱れしといふ有名なる秋山郷、其他山中の湖として有名なる大沼池、山として高山に數へらるゝ苗場山、岩管山、橫手嶽、飯盛山等に行かなかつたのである。
講習中山登りの賛同者を求めて得ず、余は講習終了して橫手嶽白根活火山に登り、更に信飛の山系日本アルプスの稱あるその一角、越後越中信濃に跨る白馬山(海抜一萬千尺以上)に登り、今秋公設展覽會に出陳する畫の製作を爲し、それより信州にて有名なる北安曇の北城より柳澤嶺を越へ、戸隱山中に入り、裾花の水源を極め流に沿ふて長野に出で、各地の洪水に遭蓬し、汽車にて入る可き東都に船にて歸京した、その紀行は次號より