澁温泉水彩畫講習會雜記[上]

根岸生
『みづゑ』第三十
明治40年11月3日

 昧爽の凉を趁ふて安中停車場に集合したる同行四人、心機一轉して己に安息日に入る、昔者東波月明に清遊を試みて羽化登仙と遣て除けたが、流石は雷名歸する處東波の趣味が活躍したのである、例令赤壁の明月も漁夫には何等の交感がない、して見れば趣味は自ら新風光新事相に分け入り躍り入るの媒となり縁となるのである、是の如き新風光新實在は情の所産である、余は這個の消息を美的活動と思惟するのである。
 夫れ美的活動は絶體無上の精進を希ふものなるが故に、本能性に埒を規定し、渾然として聖き境涯に入るの動機となる、而して此先天的願望の要求を滿足せしむるものは藝術である、余は藝術中より適々繪畫を選擇したのである、余は美的活動を一種の宗教にあり信仰であると思ふ信者である。
 余の信仰は益嵩して來た、其矢さきに水彩畫講習會の案内を受けた、非常の福音で在ると共に、一切の世縁を絶したる無何有の郷に瓢漾すべき天國と感せられた。
 愈七月三十一日朝安中を發車した。吾輩の一行は滿室の視線を惹た、朝風に靑波とうねる田を縫ふて汽車は駛る、妙義山已に熱色に輝た、吾輩の暑さは眼から這入る、人は皮膚から這入る悶々の態見るから氣の毒てならない。
 磯部、松井田、横川と通過して、アプト式の碓氷峠、二十有六個の墜道、無難に通り抜けた海抜四千六百五十呎、澆角たる原野に野趣深き花が咲く、平和の夏よ?
 汽車は豐野驛に着た、筆太に水彩畫講習會の掲示が四ッ街道に見えた、吾黨の士らしい仙骨が三々伍々下車した、若しや夫れかと互に目迎目送したのは御愛敬で在た、午後一時馬車にて澁に向た。
 八月一日午前七時開會式が擧行せられた、信濃毎日の福山記者其主旨を演述せられた、會員六十余人と注せられた、三府十一縣の代表者である、此處暫くは舞臺を筆とパレツトに讓り神秘の謎語を解折せんとするのである、天佑に由て趣味を解し、其手腕の成敗は一の未來記に過きなかつたが今は未來圏より脱して現實のものとなつた、會員の年長者と年少者とは父子の如き年の差がある、之か他の講習會とすると同一階級に屬する人で、自然と年格好も揃ふであろーが、吾黨の旗幟は平等無差別、啻夫れ神聖なる藝術を尊重するのである。
 會員の頭上、水準線上に泛★として高まつた河合先生、完爾として會釋せられた、是の短期講習をして最大收穫に得せしめんか爲めには如何にすべきかの疑問を眉宇に洩らしつ、同情の輝く眼を以て見廻したときに、余輩は不思議にも大なる命題に自然と解釋を與へた、丸山先生は特殊の天命を信するが故に、福音を率土に宣傳するのである、吾輩は二先生の卓説を欣廳して造物主に對する嚴肅なる責任のあることを自覺したのである、小林秀治君か紀念撮影をした。

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