寄書 繪畫は凡ての人に利益がある

汀煙生
『みづゑ』第三十
明治40年11月3日

 君、ドウダそうホンヤリして居らんで、チト繪でも描かないか‥‥?
 イヤ僕あいやだ、フーム、トハ又如何云ふ譯だよ人間男子と生れて繪心の無い樣な者駄目だぜ、ナント云はれても僕には描けないから否だ、ソンナラ見るのも否かい、インニヤそりやあ大好で子供の時から繪と來たらドンナ物でも欲しくて耐らなかつた位だ、ソラ見ろこれは僕と友との會話である、イヤ實際萬人がコウで恐らく繪を見るのをも嫌たと云ふ者は無いだらう。
 第一此の道に就いて居るとそれによつて利益を得る事夥しい、其利益が世の中の如何なる種類の人にも皆行渡り己れは繪などチツトモ要らぬと云ふ樣な者無いのが妙ではないか、
 卑近の例を取つて云ふが、僕は現在製絹業に從事して居る、夫れの業務に於いて一の圖案を組立るのも。或は絹絲絹布を色染するとかにあつても夫の運用力に一種不思議の活氣を増して居る、從つて現るゝ所の結果には一段の功驗がある譯だから眞に繪畫大明神樣である、然しこれは直接事業に必要と云ふのであるが是れを間接道樂的にやるとしたらドーカ、世の中には隨分如何樣の人間が多くて困るが遊ぶでなし、働くでなし、只終始ブラブラ恰かも風船玉の樣な先生達がある、これ等の輩に少しでも可から此の道に導いたらばだ、繪畫の夫れに及ぼす功力は實に偉大なものであらう、ソーシテ其人の性情をば確に善くする從つて趣味が高尚になる故に其人の家庭は悉く圓滿に行くであるから人の信用をも得る、然る故に其人は成功する、見給ひ一旦は風船玉と云はれマゴツクと千仭の奈落にも陷ち込まむとせし輩が、一度繪畫の靈光に浴して飜然大悟遂に成功の彼岸に達するではないか、是れを見ても其利益の幾何であるかゞ測り知れない又繪を行つて長年の胃病が愈ったと云ふ人もある、或は到抵文章は顯はす事の出來ない風景もサラリー小紙面に引包んで旅より友に送る事が出來る文章家もあろう、其利益を數へたてたらば到抵紙面の免す所でない兎に角此靈力の絶大なる繪畫に趣味を有する人は世界の幸福を一人で背負たと同じで實に愉快を感ずる所である未だ畫筆てう者を握らざる諸君よ一刻も早く尤も着實に始め給ひと僕は御注進申す、前には大下丸山兩先生の如き、慈悲深き温師あり左を向けば器械や繪具は何んでも欲するまゝにある、右を見れば參考の名畫と自然の風景は至る所に在るではないか、これならば兩手に掴つてアンヨは上手を行るより確かなものであらう、チヤンスは幾度も來らず此の機に於いて凡てに利益ある繪畫の道をば、多々益研鑽せられむ事を勸告する所である。

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