水[中](ラスキン氏近世畫家の一節)
霧鴎生
『みづゑ』第三十一 P.7-8
明治40年12月3日
位置が遠距離ならば、暗い物體が分明に影を映すけれど水の色は認められない。近い所の水面では、水の色が映つる暗い影の色を變らせる、併し明かるきものをば影響せずに殘して置く、こゝに無限の興味があるのだ。
例として自分のヴエニス紀行の一節を掲げやう。
五月十七日午後四時
東方を眺めると水穩かで空と船とを映してゐる、薄青い空は水面では少し濃く見えた、されど黒色の船體は黒く映らずに蒼白い海の緑色に見える、即ち日に照らされた水のローカルカラーに見えてゐる。しかるに前日頃かに降つた雨で濕ふて橙色に見える檣はそんなに能くうつらない。舷側に白や赤の條線が通つてある船も居たがその條線などは映つてゐない。それに不思議なのは白、黒の紋樣のある小船が來たが、黒い紋樣の映つた所の水は緑色に見えて白の所は少しも映つて見えない事である。
波止場近くに吊してある小舟はうねうねする海面に顯然と倒影を生じてゐる、これは蔭となった部分の水の反射の力が殖えた爲であらうと思ふ、何故といふに漣波の向ふ側には空の深青色を呈してゐるが、近い所のになると段々と暗さが増して薄い緑となる、極近くの波では緑よりもやゝ暗いかと思はるゝ程の灰色の雲を映してゐる。
清澄な水には蔭影はない、反射鏡の完全なものも影がない、空氣の樣に透明なものも影はない。其れと同樣に、水も光線を透過するも反射するも影はないのである。しかし他の物の蔭影は明かに水上に現はれる、これが水を描くときの誤謬の重な源因となる。
日蔭の水は日なたの水よりも反射することが強い。日光に照らされてゐる水のローカル、カラーは活き活きしてゐて凡ての映つるものの深みを減少する。日蔭の水は反射力が數段増加する、されば水面より上にある物體の蔭影でなく物體其の儘の倒影を水面に生ずることのあるのは殆んど普通である。
フローレンスのアルノ河の樣に水の濁つて居る河は、日の照つてゐる間は、河水の黄色の爲めに映つるものの色調を更へたり、弱めたりするが、朝夕は、反射する力が強くなるからカーララの連峯が河面に映りて明かに見えることは清澄な湖上に見るのと同じである。
水のローカルガラーは比較的に暗い映像をそのまゝ受けないが、輝いて居るものならば其の光澤等を減らさずに映す。
一群の樹立の下に澄み切つた清池があつで、水面には樹の間に見ゆる空までを映して居る、水には幾分色あるものとして思へ、そうすると水邊近くでは木の影が顯然と水底に落ちて居るのと、水自身も透過した光線の爲めに本來の色に見える、段々離れ行くと底は見えなくなつてくるが、明かるい所よりも暗い所の方が遠くでも底を見ることが出來る、併し遂には何所でも見えなくなつて水面のが青空を能く映すが、暗い木をば不完全に映す、そして水色が見える樣になる。
蔭影が暗い倒影の上に落つるときは能くわかるが、空を映した所へ落ちると消えて見えなくなる。
ひどく濁つた水上にうつる蔭影は、日中に地面にうつる樣につよく出來る。
水を描くに當つて見える色が水の色であると思ふは間違であつて、多くの事情が水の色に影響するのである。