秋の自然

丸山晩霞マルヤマバンカ(1867-1942) 作者一覧へ

丸山晩霞
『みづゑ』第三十一
明治40年12月3日

 四季のうちにて、心氣爽かにして壮快を覺えるのは秋である、私の季といふと、太陽暦にては七八九の月であるが、この七八は盛夏の炎熱で、九月は殘暑にてまだ暑く、秋と思はるゝのは十十一の月である。百日紅の花錆びて森の蝉も聲を絶ち、朝寒の庭に紫苑の花眺むる頃、これからが秋である。空氣は透明して一點の汚濁も無く、凡てが洗ふた如く瀟洒淡麗である、これが秋の自然の生命である。然しながら秋にありても、晴曇雨時には霧又は霞む日もある、ざれどこれ等の趣は他の季のそれと異つた特殊がある、それが瀟洒淡麗である。先づ秋の自然を形態上より見ると、夏の繁茂して居る草木の圓味が少しく亂れたといふ位で大した相違が無い、秋の美と快感とを吾人に提供するものは色彩である、色彩を離れては秋の天地を藝術の上に現はす事はむづかしい、さらば秋を代表する色彩は何であるかといへば、無論黄であると答へねばならぬ、然り黄は秋を代表する色である、秋の凡ての色彩には黄色を加味して居る、黄色は活氣に富める賑かな色である。
 余は今秋霜葉を利根の河畔に探る可く旅行して、上州澁川町よリ沼田町に向つて出發した、行路秋深し、行手は子持山の南麓、上白井村を過ぐるときは午後一時頃であつた、連日の快晴にて風も無く、短かき日脚は西南に傾き、秋ながらも日蔭を選みたき程暖かつたのである。上白井村の新道は子持山麓を東西に横切りて、脚下は展けて人家を望み、利根川その間を迂曲して流れ、對岸の高原は赤城山の裾野である。上白井の新道を行くと、人家は山の面又は河畔に散點して、何れも常緑樹落葉樹さては竹林等に掩はれて居る、落葉樹皆霜葉を呈して黄紅赤を染め、常緑樹竹林等と交りて居る、其間に開けたる平地の黄なるは熟稻、黄緑なるは桑園、鮮緑は菜圃である。路傍の柿は赤熟し、柑橘又黄熟して枝も裂けんばかりに垂下して居る。豆打ち落す音は近舎遠村より響き、★犬の聲又これに和す。歌ふて女牛曳く農夫、家を鎖して皆野に働て居るものもある。筧引いたる家あり、そこには山茶花の籬めぐらして、黄菊白菊が咲て居る皆美はし。村端の畔に蹂踞て展望を寫生す。瞰下に五彩七彩の森ありて、四五舎の村そのうしろに見ゆ。利根河畔の斷崖は高く低く、或は展けて河原を現はすもの、深碧の水静かに流れて居る。對岸の山村寺院も見ゆ。遠近より煙立ち昇りて、それが霞の如く村をこめ林をこめ、夕日はこゝを照して距離を明かに春の霞めるものゝ如し、されど秋の日和の霞めるものは、澄みたる空、霜葉の花と相俟ち、春とは全然趣きを異にして居る。賑かな山村、豐な山村とはこの間の趣きをいふたのであらふ。豐富な趣きを現はすものは、樹木と煙と流である、如何に人家多く田畑が多く、流があつて煙が立ち昇りても、樹木といふものが無いと豐富の趣きが無い、又實際樹木の無い處は豐富でない、殊に賑かな霜葉を點じた樹木の多い山村であるから、豐富な太平な氣があふれて居つた。
 秋の美はしいのは霜葉ばかりで無い、凡ての植物は秋に豐熟するので、その熟した色が美しい、畑や田の色の變化多きは豊熟の美彩である。果實に至りても、柿の如きは赤熟して全村にあふれて居る處がある、これ等の美は歐米に見る事が出來ない、我國特有のものである、殊に赤き柿に調和するのは秋の夕日の直射である、如何にも暖かい色で、西日うけの柿村が散點して居る美は、紅葉よりも趣味が深いのである。柑橘等も深緑の中に黄金の珠玉かけたる如く美しい、これも秋の色である。
 秋の自然界は皆成功の氣が満ちて居る、人が生れて學び、中年に活動して、成功り名遂げたときは秋である、自然の植物が春に生れて花咲き、夏は活與をなして秋に豐かなる結實を遂ぐのも人世と少しも異ならない。
 秋は草木が美彩を放つ外に美がある、それは菌類である、茸は兎に角、地面又は樹の枝幹を纒ふ苔である、それが新緑滴る如く、殊に麗はしいのは斷崖絶壁を染めるものと、人通り稀なる道路を彩るものである、深山にありて白髯の如く樹枝より垂下する猿麻★等の發育するのもこのときである。
 秋の花は皆鮮美で、古來七草を以て代表して居るが、これ等は初秋のもので、深秋に開くものでは、野にありて野菊(黄白二種あり白は稻紫がゝりて軍辮且つ大)芒である、黄がゝりし原野を更に黄金を點ずるは野菊である、斷崖又は河畔の岩石等に垂下して険くは白野菊で、何れも晩秋の自然を飾つて居る。高原に波打てる芒は等しく花なれど特殊の趣きがある、芒は七草に配し、又は近く見し二三株を描きて日本畫の品題として古來描て居るが、芒の面白味あるは長く引いたる裾野、又は長き堤等に群がりて、風に動きて夕日にきらめく等、又は百千萬のものが直立して開て居るも趣味がある、又少し亂れた芒を前景として夕月を配したのもよい、芒に満月は昔からの畫料であるが、芒の穗や葉の少しく垂れて曲状をなしたものは、滿月とよく調和するのである、又薄のみでは單調になり易いのであるから遠山、森、流、雲等を配した方がよい、芒原に順禮者駄馬等もよく調和するのである。日本の秋は至る處の山野に芒を充して居る、これも欧米に見る事の出來ない日本特有の風物である、芒は純日本趣味のものである、芒は又凡てのものに調和して、色を除きて秋といふものを現はすには、芒等は好材料で、これも秋の代表者である。芒の單調に色を添ゆるは、草紅葉ツルモドキリンダウ等が面白い。
 秋の生物にありては、歳々その頃渡來する小鳥である、(色鳥といふ)コガラヤマガラシジウカラキクイタヾキツグミアトリレンジヤクマツガラ等にて、秋の麗はしい色彩をこれ等の小鳥はもつて居る、そして其の聲も爽かで秋らしいのである。昆蟲等も秋草の花全盛のときは、その極類も頗る多く、昆蟲の標本採集には、淺間の高原等がよいとの事である、これ等の昆蟲も皆秋の美しい色を持つて居る、蟲の音にても初秋に鳴くものは稍暑苦しい聲であるが、鈴蟲松蟲蝉等の聲は爽かに澄み渡つた音で、如何にも秋らしいのである。
 秋と春との氣候が似たる處はあるが實は大に相異して居る、今表を作れば
 春秋
 自然美の趣は午前にあり自然美の趣きは午後にあり
 殊に日出が美はしい殊に夕陽が美はしい
 春は優美のものが多し秋は壯美のもの多し
 春雨は睡氣を催す秋雨は睡氣を覺ます
 春は女性的秋は男性的
 春は霞む秋は晴るゝ
 春の曇は暖かし秋の曇は冷たし
 春の色は濁りて淡黄淡青淡紅秋の色は澄みて鮮黄鮮青鮮紅
 春の月はなまめきておぼろ多し秋の月は壯にして明晴
 春の水はぬるく秋の水はつめたし
 春の空は低く秋の空は高し
 春は病者多く秋は病者少し
 春の音は低調秋の音は高調
 春の花は柔かくして小秋の花は堅くして小
 右の如く春と秋の趣きは異つて居る。それから秋は寂しきものであるといふが、春の陽氣なるに比較すると春よりは淋しいのであらふが、秋を觀察した感に於ては前に述べた如く、秋程賑はしく又豐富の氣の満ちた季は他にあるまいと思ふ、秋の寂淋味を感ずるのは霜地に充ちた晩秋で、凧は木の葉を落し、山野は枯萎みて鳶色を呈し、刈田の黒き田の面に水鳥啼き、探り殘されし柿の梢に一とつ二たつ殘れるのとき、これからが淋しき秋である、鴫立つ澤の秋の夕暮もこのときであらふ、花と見又錦と見たる霜葉は日に日に落葉して、圓味を持ちし森も林も角ばりてて痩せ、骨のみ殘る枝幹は如何にも淋しい形態である、色彩豐富にして瀟洒なる自然界は忽ち灰色と鳶色に變し、夕日の村に白壁のみ輝き、庭の菊も亂れ山茶花も色銷びては、誰かは晩秋の寂蓼を感ぜすには居られまい、晩秋は淋しきものである、この淋しき自然を主觀すれば、悲哀の概念は頭腦に宿る、淋しき秋の消極美の詩の句も畫題もこのときに生るゝであらふ、秋の淋しきは晩秋より初冬に渉るときである。(了)

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