水彩畫を修むるの基礎[下](大阪に於ける講話の一節)

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

大下藤次郎
『みづゑ』第三十一
明治40年12月3日

△水彩書を學ぶには、前に述べたやうに、鉛筆畫で形を正確に寫すことを習ひ、一色畫で明暗、濃淡の調子を明らかに現はすことを習へばよいのであるが、其形を爲し濃淡を現はすにも、矢張り學ぶべき順序があつて、それを踏まぬと進歩が遅い。
△一本の線を引くのと、一つの圓を描くとでは、其難易は同日の比でない、西洋畫の教へ方は、誰でも掛來るやうに圓を描くにも直線から造つてゆく、即ち四角を作り八角にし十六角にし三十二角にし終に圓にするといふやうに、花でも器物でも皆直線を以て輪廓を作つてゆく。
△鉛筆畫で形を學ふのも此順序でよい、直線なる單純なものから始め、曲線の複雜なものといふ風に寫生し研究してゆくのである。
△濃淡の調子も同じ事である、初めは明るい處と暗い處の尤も明かに見ゆるものから學んで、順次中色の複雑な、反映反射などのある物體に及ぼしてゆくのである。
△色彩に移っても同様である、原色に近い鮮やかな面倒のない色のものから寫し習つて、次第に調合の困難な色のものを寫してゆくのである。
△戸外寫生の初めも矢張り靜物からかゝらねばならぬ、初めから動くものや影の變るものは畫く事が出來ぬ、道端の石一個にも巧妙なる色彩がある、先づその石一つを滿足に描き出す工風が肝要である、平凡なる一株の樹根も大畫家の筆によつて再現せらるゝ時は立派なる美術品となるのである、初學の人には部分研究は尤も必要である。
△多くの人は繪を學ぶといふ、繪を研究するといふ、然れ共其態度は决して研究的ではなくて、いつも製作に從事してゐるのである、樹木なり山なり研究して、一枚の寫生をなせば、何等か得る處がなければならぬ、研究の爲めには、其繪が眞黒にならうが醜くならうが搆ふ事はない、自己の信する點に向つて飽迄忠實に描かねばならぬ、白いワツトマンは何十枚も犠牲にせねばならぬ。
△此考を以て寫生してゐる人は殆どないやうである、折角旨く出來たのだから、アー見えるがこれは止めやうといふやうな風で、大謄に着色する事をせぬ、出來榮を氣にして、寫生畫を以て友人に誇る材料にしてゐるのである、後ろに立つ人達に下手だと見られまいと思つたり、上手に描いて驚かしてやらうと思ふ様な考いで繪をかくのは研究でも稽古でもない、こんな態度ではいつ迄やつても進歩すべき者ではない。
△要するに寫生する時は、將來立派な繪をかく爲めの稽古をするのであるといふ事を忘れずに、飽迄熱心に、眞面目に、正直に、大膽に、研究的に筆を執るべきものである。
△水彩畫(墨繪も同樣)にて物を寫すに一定の描法はない、杉を畫くには斯くせば一番よく感じが現はれるといふやうな事は云へるが、必ずしも其通りにせねば杉が描けぬといふのではない、描法は自然が教へてくれる、自然の觀察さへ充分なれば、其描法は自から會得するのである。
△繪を學ぶといふ大道があるとすると、日本畫には形式といふものがあり流派といふものもあつて、是非其大道のうち、右の隅を歩べといふ、或一派は必ず左を通れといふ、そのやうに人爲的に極めて仕舞ふが、西洋畫を學ぶには、其大道のうちでさへあれば右でも左でも中央でも何處でも通つて差支ない。
△たゞ其大道を逸して横道へ入ることは愼まればならぬ、形も滿足にとれぬうちに水彩畫をやつて見たり、石一つ描く事の出來ぬうちから大風景を寫さんと試みたりするのは、取も直さず横道へ入つたものである。
△繪を學ぶ人はその基礎たる研究を怠らず、この大道を眞直に歩みてゆきさへすれば、早晩目的地に到着する事は請合である。(完)

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