澁温泉水彩畫講習會雜記[下]
根岸生
『みづゑ』第三十一 P.22
明治40年12月3日
火中の栗を捨ふ射倖的態度を以て、午后の寫生地點なる地獄谷に出發した、渓流石に激して雪を噴き、岸を噬んで淵となり、或は★せて矢の如き飛瀑となり壯たり絶たりの光景に配するに、蒸氣噴騰雷の如く轟き、天に沖して七色と映じ、神韻漂渺云ば大家が腕前を發揮するに適してをる畫題である、自分は誤て是に手を着けた、變幻奇態到底凡筆に捉ふる事か出來ない、氣は焦つ、場所を變て尚一枚試みた、之も又無益であつた、人には見せられない、日脚は無遠慮に傾く、人は最早半仕上に塗り上けた、先生は落花流水と快意に筆を操縦するのである、自己の失意の時程人の偉らく見える時はない、先生は美神の權化と見えた、而して余は煩悶懐疑の奴となつた、渓流はあざける如く笑た。
宇宙に怪物あり、出て天外に漲り、かくれて一點の片影を止めず、月を曇せ又蕭々の雨となり、風に巻ては紛々の雪を降らす、人の感情も又頗る是に類する怪物である、其高潮時に在ては妙麗の繪畫となり、反對の潮流が來たとなると無惨のものである、余は此低氣壓に襲はれた新に疇昔一躍して青雲に入らんとしたのである、今想へば、僅かに美の輪廓繪畫の皮膜を解して居たのみである、是が中堅を衝くの實力は未しであつた、氣で繪畫を描かんとしたのである、縦横一筆拂千軍、先生の鋭利なる態度に少少驚いた、通信教授中臨本の効力はあるに相違あるまいが、百聞一見に不如である、故障が在て來會する機會が無かつた、同好諸君に同情を寄せざるを得ないのである、臨本に由て研究の諸君、鮮やかなる一彩を傳し得ざりし憾みはなかりし乎、今日始めて半日の講習に、余の活力は最低潮となつた、心意の機關は作用を害せられた、缺點ある機械は良好なる生産をなし能はざる事當然である、憂心沖々として爲めに長大息したのである。
第二日、早曉床を蹴て新しき天地を眺めた、金泥を蒔き散らしたが如き彩雲東天を繚繞し、清浄の心を以て此の自然に對し、美の神の接した如き感が在た、物を描くの最大要件は是の心機である、劣機下根なればこそ畫が描けないのであると快了してはスケヅチ箱に對して氣が澄まない、高價の繪具に對して猶更らである、人の手前が惡るい、其くせ余のスケツチ箱は頗る「シヤイニング」てある、今日こそはと紫溟に飛んで三脚を据た、悟は開ひたが何分手が冴ないのであつた。
第三日、諸藝共に寒稽古で苦むのが通常だが、余は反之暑稽古である、難義苦行一通りでない、可愛子には將來共遺言して畫の稽古は遣らせまいと思た、一時の趣味と思ひきや中々の苦痛になつた。
何んでも赤子天眞の心情でなければ成功しない、天地人生の奥に脈持つ温かなる生命を促ふる事は出來ない、修養此處に到ると實相に觸る處鏗然として自ら聲をなし、色を織るのである、兎角平素は俗事に妨げられて繪三昧になることが出來なかつたが、此處數日は繪畫生命であるから一心不亂に學んだ、
第四日、漸く先生の寸鐵評語が身にしみた、兎に角に苦勞したのである、最初から講師にのみ依頼して、上手になるだろうと思つたのは誤りで、乳を飲む小兒は乳を飲む事を意識して後に飲むのである、いくら母が與へても飲む事を知らない小兒は成長しない、到底自助である、先生は進路を指示し研究の方法を誤らない樣にするのでめる、吾人は精緻穩健の考を以て溟々として努めねばならない。
美術は絶體價値のものである、烈士義人の行爲も道徳の名に由て傳られてあるが、其實一種の美的である、道徳も醇粋生命あるものは美的活動に依て始めて得らるゝのである、其道に就くや烏の塒に歸るが如きに到るは、藝術を透して獨り得らるゝものではなかろうが、余は講習中自己の愚なるを知得たのである、誠に天の時を得地の利を得、而して人の和、又有りし講習會で在た、而して又趣味ある避暑法で、又練想の教育であつた、氣の毒なのは塵表閣の主人で、酒が少しも賣れなかつとこぼした。
(終)