寄書 余の水彩畫に志せし動機及び其の經過
三脚道人
『みづゑ』第三十一
明治40年12月3日
自分が水彩畫に志しましたのは、明治三十八年一月發行中學世界の口繪にありました三宅克己先生筆水彩畫須磨の元旦を見たのが、其の動機でありました。
自分は、性來繪畫が好きでありましたから、雜誌に、コマ畫が挿入されたり、口繪に鉛筆畫や、セピア畫等が、出て居るのを見ます毎に、何んとかして、自分も此樣な畫がかきたいものであると、憧憬れて居ながら、繪筆を取る時機がありませんでした。處が、中學世界の口繪水彩畫須磨の元旦を見ました時に、あゝ、立派な畫だ、實に美くしいものだ、自分も如何かして、此樣な水彩畫を描きたいものだと思ひましたが、然し最初から物體の形状の描けぬ者が、繪具の調合も知らぬ者が、如何うして、此樣な立派なものが描け樣はづはないからと思ひましたから、私は物體の形状を描く練習として、直ちに鉛筆畫を初めました。其時丁度同雜誌に岡田先生の鉛筆畫の手本がありましたから、夫を參考として、一册のスケツチブツクをも買ひまして、見るもの、何んでも彼んでも鉛筆寫生を爲たり。又臨本により手習も致しました。處が妙なもので、追々形が出來て參りましたので、大に自慢してやろうと、一日友人のNY君の宅ヘスケツチブツクを持つて行きまして、見せました處が、友人は、自分は、水彩畫を描いて居ると云つて一枚の水彩畫を見せて呉れました其時、自分の眼には、友人の畫が立派に見めましたので、鉛筆畫を止めて、水彩畫を初め樣かと思ひましたが、待て々々と夫から友人と相談して、土曜日や、日曜日毎に、自分は矢張り鉛筆畫を、友人は水彩畫の野外寫生を致しました。
處が友人の水彩畫が段々上手になりますのを見るに付け、羨やましくてたまりませんし、自分の鉛筆畫は、未たみじくですが、何んだか、一色の墨繪では自分の心が滿足せぬ樣になりましたので、遂う遂う、私は明治三十九年十一月二十三日友人Y、T、君と丹生大師へ遠足を致しました時に、友人のTS君に繪具と繪筆とを借りまして、櫛田川と丹生大師とを水彩畫で寫生致しましたのが、抑々自分が水彩畫を描きました初めであります。
すると、下手ながらにも、水彩畫を描きましたのが、自分は非常に愉快に感じまして、歸宅早々七十五錢の佛國製の繪具と日本製の繪筆とを買ひ求めまして、暇があれば、野外寫生に出て、臨本により習畫を致しまして、友人のN、Y君に大に對抗致しまして、先に鉛筆畫に熱中致しました自分は、水彩畫に熟中する樣になりましたのです。其後三宅先生の水彩畫手引や、大下先生の水彩畫階梯を讃みまして其の道の事を研究致しますと、水彩畫を描くには墨畫から初めねばならぬと云ふ事が説かれてありますのを讀みました時、自分は期せずして、水彩畫を初める最初に鉛筆畫を初めましたのを大に徳として今尚ほ鉛筆畫を廢しませぬが、何時の間にやら水筒の代用とした壜が眞の水筒と變じ、三脚椅子に腰をすえる樣になり、畫嚢も買うと云ふ樣な譯です、雜誌『みづゑ』を唯一の參考として、自分は永久に此偉大なる美術によつて、己の心膽をねり、人格を養成しやうと覺悟して居る次第であります。(完)