イラストレーシヨン
戸張孤雁トバリコガン(1882-1927) 作者一覧へ
戸張孤雁
『みづゑ』第三十二
明治41年1月3日
○日々に發刊せらるゝ幾多の書籍雜誌を通觀するに、其内容の如何よりも寧ろ表紙の意匠及び挿畫に多大の注意を拂つてゐるやうである、此の新現象は即ち一般讀者の美術的思想が發達して來たことを證明するので美術界の爲め眞に喜ぶべき現象と云はねばならぬ、如斯く世人が美術に對して注意するやうになつたについては、今後益々挿畫を研究し、之が改善發達を計るは美術家の任務であらうと思ふ、亦靑年美術家中には既に挿畫の研究に從事してゐる者も尠くないやうである、が然し現今我が國に於て挿畫されつゝあるものが、歐米の其れに比較して責任を全ふしてゐるかと云ふに、遺憾ながら然りと答ふることは出來ない、こは予一個の斷案でなく何人と雖も同じ感に打るゝであらう何故に然るか其原因を考察するに、必竟挿畫の研究者尠きと、一は油繪、水彩畫の思想を以て挿畫を描く結果と思ふ、單に挿畫と云ふても種々なる種類もあり、亦研究の方法も油繪、水彩畫とは根本を異にしてゐる、故に挿畫を研究せんと欲する者は、專門的に研究する必要がある。
○多くの靑年畫家中には挿畫を學ばんとしても如何なる方法を以て研究すべきか、如何なる徑路を辿れば良いか、殆ど五里霧中に徘徊ふてゐる人も尠なくないやうである、予は今茲に挿畫の一斑を述べて、志望者諸君の多年の宿望に一つの光明を與へんと欲す、若し諸君の研究の一助たり得れば予が本懷之に過ぎないのである。
○我が國の美術學校では挿畫科は未だ設けられてはないが、米國では疾に專門科目となつて美術學校の一科目として設けられてゐる、他科目の教師は多く兼任であるが、挿畫だけは專門の教師が教鞭を採つてゐる、例令ば肖像、油繪科及靜物、若しくは木炭畫科等、(ペインターとドラフトマン等)互に兼任してゐるが、挿畫には决して如斯きことはない、挿畫科を尚ほ二分して美術挿畫科と新聞挿畫とに區別してゐる、美術挿畫科と新聞挿畫科との相違は、前者は美術的技能と文學的趣致、社會及び後世、史學の參考に對する重き責任を有し、又後者の技能はスケツチ的才能と一種の奇智頓才を要する點である、挿畫は油繪、水彩畫と違ひ、一般座居せる人にも直接に觸るゝものであるから誤解を生じた場合は、世を害すること尠からず、故に其責任の大なるは勿論予の喋々を要せずして瞭らかである。
○美術學校では前者挿畫のみ教授して、後者は新聞挿畫專門學校に於て教授してゐる、美術學校は何故後者を教授せぬかと云ふに之れは前述べた相違あるのみならず、概ね野鄙に流れ易く、時として美術の範圍を脱脚することあるが爲めである。
○元來挿畫は單獨に畫の價値を示すものではなく、必ず文學或は歴史等と相隨伴して世に表はれ、相互に不及所を補ふと同時に、印刷物となつて公にせらるゝのであるから、最初より適當の方法を選んで、技術を練磨しなければならぬ。
左に挿畫科を專門に分類して見やう。
挿畫科
歴史、宗教、小説、
浮世畫(風俗)
ニユースペーパーイラストレーシヨン(新聞)
諷刺
ポンチ繪
流行及似顔等
大略區別すれば右のやうになる、亦如何なる材料を用ゆるかと云ふに、最も多く使用するのはワツシ(墨)で、次がクレヨン、水彩ペンインク等である、新聞挿畫としては多くペンインク及び木炭を使用する。
○米國では前表の如く專門別なるのみならず、使用する材料に因つて又專門となつて其の特色を發揮してゐる、ペンインクではチアーレース、ギブソン及びアベー氏等早くより使用し、クレヨンでは、クリスチー氏等が有名である、ワツシは殆んど數ふるに遑なく、内最も名あるはクラーク、テーラー、アベー氏等である。
○右の他に最も名高きはブレマン、スメデレー、チァーチ、フロスト、バーワン、レインハード、イヴアノースキー、フオーガチー等は挿畫界の戴斗である。
○新聞挿畫家では、ダベンポート、ダリンプル、ヒルメー、トムプトン、コオリー、アレン、デルクス、グリフイン氏等が有名である。
○挿畫は何年頃から流行したかと云ふに凡そ一千四百二十三年に木版で人の形が挿畫されたのが最初であると稱へられてゐる、次で十五世紀の終次、ベニスでアルダスと云ふ人の印刷したるものとドネーテンのLatin syntaxとHuman Salvations等で此れに次ぎてBiblia PanmperumダンテのDivin Comedy我が國では菱川師宣の挿畫伊勢物語が此頃發行された、尚ほ一千四百八十一年にはバースのParvus et Nagnus Cathoが出版され、八十六年にはラテン語のBreydenbachs Travels等の書籍が發行されたが餘り見るべきものはないやうである、彼の挿畫で有名なDureaの教師Michaelwholgeunrthの頃から漸く盛となり、Durerの時代には餘程進歩して來た、次でBewick 1753-1823の時代には色彩印刷が行はれ、其他尚ほ種々の改良發達を見ることが出來た、故に今日まで挿畫界の一大恩人として尊敬されてゐる、最も有名なのは一千七百九十年の發行に係るThe History of quodrupedsと一千七百九十七年より出版された、The History of British birds等で、歐洲總ての挿畫はべーウイクに依て一大變化を來したのである、一千七百九十六年には石版術が發見された、挿畫も亦一大刷新を行はれた、石版畫ではプラート、ウアード氏等が最も有名な人である、木版及びエツチング等の挿畫大家としては、Cruikshank Leech氏等、此頃最も名ありCruikshank氏は一千七百九十二年九月生れた人であるが、十二三歳の頃より已に立派な挿畫家で、人を驚す程の作があつた、此の人達が挿畫の事門に學ぶべき必要を叫び、終に挿畫專門學校を建設した、此れが挿畫學校の初めである、一千八百三十三年に畫週報を發行し、引續きてOncea week good words等の雜誌が無量十數種發行された。
○テニソン詩集Sixtiesの發行された一干八百五十七年頃は、歐洲に於ける挿畫の全盛時代であつた、此頃挿畫を描きて後世に名を遺せし名家はRossette millois. Hant. Walker, Hanghtan Pinewell等星の如く現れて最も全盛を極めたのである。
○佛國の全盛時代は一千八百三十年前後で英國は一千八百五六十年前後である、今は大西洋を越えて米國に移り、挿畫の全盛は全く合衆國の獨占となり終りたる觀がある。
○我が國でも書籍に挿畫をなすことは疾くより行はれてゐる、菱川師宣の伊勢物語の挿畫を初めとして一千六百九十五年即ち元禄八年には彩色印刷の法發見せられた、我が國の挿畫大家は菱川師宣、雛や立圃、鳥井清信、西川祐信を甫め、橘守國、清春、月岡舟下、北尾重政、歌麿、北齊、長谷川雪丹、英泉、眞虎、廣重等皆有名な人である、以上唯だ概略を述べたのであるから其意り御一讀を乞ふ、尚ほ挿畫研究の方法及び前記の大家の作品を掲げることが出來れば、追々號を逐ふて掲載する考へである。