靜物畫の話[一]

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

大下藤次郎
『みづゑ』第三十二
明治41年1月3日

△人體の研究が不充分では繪は畫けぬといふが、專門家以外の人には研究の機會も少ないしさまで深く立入るには及ばぬ、其代りとして靜物寫生を充分研究されたい。
△殊に風景畫を描くには靜物寫生の素養が最も必要である。比較的容易なる靜物を主題として、其形態や、濃淡や、色彩等を研究し、物質を表出する手段を學び置くときは、景色を寫生する上に非常の利益がある。
△靜物畫は、他の人物畫や景色畫に比して、繪畫としての價値は乏しい、古來その方面の大家もあつたが、それは僅かに五指を屈する程で、其製作品も有名なるものは澤山はない、そして歐米に在ては多く食堂の粧飾に用ひられてある、果物や野菜の類を寫したもので隨分眞に逼つた美しいものがある、現時花の描寫にで有名なる獨乙のKlein氏の如きは靜物畫家の一人である。
△繪畫としては多く貴はれぬにも拘はらず、靜物畫は是非一通り學んで欲しい、春秋戸外寫生の好期は兎に角、風寒き冬の日や土燃ゆる夏の日、または五月雨の頃などこの研究によき時である。
△靜物寫生の繪畫研究に便利なるは、變り易き花の類を除き、その他のものは幾日も寫生を續ける事が出來る、それゆへ繪を學ぶ時間の少なき人でも、三十分なり一時間なり筆を執つて、また翌日迄その儘にして置てもよい、且形や明暗を研究するには夜分でも習ふことが出來る、燈下にては濃淡が強く現はるゝ爲め初學者には却て晝間よりも都合がよいのである。
△靜物寫生の材料は何でもよい、書物文房具ランプ机等の手近の物から、花瓶置物香爐盆栽等の座敷道具、茶器鐵瓶コツプ炭取團扇火鉢煙草盆、又は帽子煙草入鞄傘下駄提灯化粧道具武器の類其他の勝手道具を始として、野菜果物花魚類等皆好個のモデルである。
△モデルを置くには、長時間光線の度の變化なき場處を選ばねばならぬ。美術家の畫室は、通例三方を塞いて北の方に大きな窓を作つてある、それは日光が直射することなく終日同一の光線を受けるためである、又北窓のほかに、同じく北に面した天井から光りを取つてあるのもある。高い天井から來た光線は柔らかで人體寫生にはよいが、靜物寫生には北窓一方からの少しく強い光線の方がよい。
△西洋風の高い窓のある部屋なら其儘でよいが、日本室なら可成北向の明るい座敷を用ゐるとよい、他に光りの來る處があれば、襖なり屏風なりを圍ふて置けばよい、最も南向で日があたつて居ても、三時間なり四時間なり同じ度の光線を受けることが出來るならそれででもかまはない、雨の日は何處でもよいのである。
△光線は必ずしも一方から來るやうにと限つた譯ではない、たゞ何れかの一方にして置くと、明暗の調子が判然と見えて稽古するのに都合がよいからである、光るものなどは諸處から光線を受けると、意外に面白い變化を呈する事があるから、少し進歩したら光線の取り方を直分で工風して見たらよい。
△室の大さは、寫すべきものゝ容積によつて異ならねばなちぬ、博物の標本を描くやうに目の前へ置て研究するのではないから、モデルと畫者とは相想の距離をとらねばならぬ、方一尺位ひのもの物を寫すには三疊敷程あればよいが、夫以上はモデルに比例して大なる室が入用である。

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