自然の描寫について

小島烏水コジマウスイ(1873-1948) 作者一覧へ

小島烏水
『みづゑ』第三十二
明治41年1月3日

 余は科學者の喜ぶやうな、標本的にわざとらしく特徴を見せたりする繪畫を好まぬ、故に何の草の葉は、上と下とでは九十度の角で並ばせよとか、朴の葉の分脈の數が三十本なければならぬといふやうな、註文をしやうとは思はぬ、殊に秋夏と言はず、畫家が植物や森林を描寫するのは、多少空間の距離を置いて寫生するのである、遠近法の觀念に乏しい支那人すら、遠樹枝無しと説いてゐる程であるから、葉の一枚々々を千差萬別に描き別けうといふ如き、實際繪畫として起り得可らざる場合を、豫想して立論するのでは無い、只畫家が一本の樹なり、數百根の群落なりに對して、寫生するとき、この自然物體の生の興味に、いかばかり同感して寫生してゐるかは、從來の製作品を觀て頗る疑問としてゐるところであつた、多數の畫家の描ける如き森林なら、團簇あり、堆積あり、群束あり、しかして個々の生命がない、化して幾斤の泥炭となる患ひがある、自然界のためには一大事件である。秋は植物が生死の巷に屹立してゐるときである、力あるものは力を用ひつくし、色あるものは色を匂はせてゐる、聲ある蟲は、その根元に今を限りと啼いてゐる、嚴肅の氣犇々と肌に泌み入るのは、この生死の關門に立つときを以て然りとする、余は最後にいま一回絶★する自然の生命を描くもの、是れ自然派の畫家なり、自然の生命に接觸したるとき、繪畫も亦立派に感情を有することが出來ると。
 しかして形骸ありての生命であるから、無論自然の生命なる語の中には、形や色の正しき描寫を、必要とすることは豫定せられてあらねばならぬ。(小島烏水氏、文庫)

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