寄書 戸外寫生の興味

長谷川晩雪
『みづゑ』第三十二
明治41年1月3日

 野外寫生と云ふても、手帳に見取圖的に描きし時代と、稍寫生の方法を會得して、專門風に寫生し始めた時代と、二つであります。前にやつたのは慥か中學二年生頃であつたらう、春季試驗の休業でした、二寸に三寸許りの小畫洋紙を携へて大井川(僕の郷里に沿うて流るゝ)の堤にゆきました、防水用の積石に腰うち掛けて西の方の堤を眺め、川巾七百間餘もある河原を前景にし、中景に松の並水を入れ遠景には榛原郡一帶の高原を描きました、松の畫き方は、文人畫の樣に文人畫の樣にを引きたるものにて、寫生と云へば寫生、甚だ不自然なものでした、これが僕が野外寫生の始じめでありました、畫きにかいたが、結果が面白くなかつた爲め自から破棄しました樣に覺えて居ます、その後も二三回試みましたが何れも不成功で終った、それは描法が分らぬ僻に、景色の如き手に餘まる物を始めから描かんとして失敗したのであります。次に二十九年十一月中旬始めて、本式に三脚を据えて、畫用紙四っ切大に風景の寫生を試みました、此時は既に、事門的に研究をして居つたから、人が見樣が傍で話を仕樣が平氣の平左でやれて餘程大膽になつた爲、二時間許の中に兎に角四ツ切が出來上つた、其時の愉快は實に忘るゝことは出來ません、先生の御批評もありました、不足の處に加筆してくれました、始めて物になりました。それから四ツ切又は三ツ切で野外寫生に出掛けました、凡べて初心の中は兎角思ふ樣に描けぬから、描いたものを破つたり、中途で止めたり、又人が見に來るのを避けたりしました、勿論今の方々は學校にて寫生を教はりますから、そんなに臆病な方はありますまい。しかし專門的に僅三四年許指導を受けてからは大膽になつたので、見物人が賞めてくれると調子に乘つて描く樣になりました、それは先生に就いて少しでも稽古をして習ふた御蔭で、自分に自信力が出來たのであります、此自信力即ち膽力は何事をするにも必要であるが、殊に野外寫生の如き大道で仕事をやるものには、第一肝要の事と存じます又其れは先天的のものにあらずして技術の上達と共に鍛錬し得らるゝ修養の結果であります
 次きは寫生中に經驗せし事柄二三を述べん、何處に寫生に行くも子供に包圍せらるゝが常であります、町裏や漁村へでも行くと前後左右から鼻汁を垂れた小供につめかられ、暑中などには、一種の瓦斯に苦しめらるゝこともあります、しかしこれも始じめの内には、隨分苦しいが習慣となれば景色を描く方に、夢中になつて、包圍攻撃を忘るゞ樣になります、又子供は妙なもので何をなしつゝあるかと、一時の好奇心に驅られて、蠅の甘きに集まる樣に來ても、あゝ云ふ繪をかくものだと合點すれば、他へ往きます、餘りにうるさき時は少し離れて見物せよと命すれば、小供は一二歩あとへ引き退いて見て居ます、時々畫者の前面に立ちふさがる者もある、これには閉口なれども、先きより見て居りし者が注意を與へて去らしむる等滑稽の事もあります。周圍に小供が居るので便利な事もあります、水筒の水か切れた時に子供を頼んで走らす事、又は巻煙草が切れた時などに使ひに穎む等は一寸便利です、小供の方は先づこの位にして、不慮の出來事二三を述べませう、或時海岸で崖下の波打際にて無心に寫生をして居つたら、上方から藁屑を浴びせかけられた、實に驚きました繪具から頭からごみだらけ、畫架は倒れる、畫板は二三間向ふの方へ飛んで行く、實に一箇のポンチ繪でした、しかし投じた人も下に人が居らぬと思ふて投じたので、怒る譯にはゆきませんから泣寢入りになりました。或る時は水彩寫生の道具を肩にかけて出掛けし處途中犬に吠えられて困りました、鎗の樣な手製の傘杖や、四尺位の畫架を袋入にして肩にかけたる樣は隨分異樣に見えたるならん、兎に角寫生中に起ち出來事は無邪氣なる一種滑稽的の事柄多く、用意周倒ならざる爲めに、途中で雨に遇ひ、衣服を濡らし、宿屋につきたる如き、友人の家を訪ふて日が暮れ、途を失して川に、落ち衣服を濡らし、鉛筆を忘れて寫生に出掛け、現場で氣が付きし事等の珍談もあれど此位に略して置きませう。風景畫をかく人は寒暑の季節に遇て撓まず、一切のことを忘れつゝ無心になつて筆取らねばならぬ、一面より見れば苦多くして樂少き業なれど筆取る人の心の中の氣樂さ、長閑さは、春の朝花園に飛ぶ蝴蝶の如く、友呼びかはす小鳥のそれの如く無邪氣なる小供に包圍せらるゝ時は、磯際近く打ち寄する白波の岸を洗ふにも比すべきか、鐵脚を床几にもたせつゝ自然界の妙景にあこがるゝ身は豈に無限の幸ならずや

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